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「板東俘虜収容所跡」が国指定史跡に!

鳴門市内で2件目の指定

平成30年10月15日付の官報で、文部科学大臣による指定の告示がおこなわれ、「板東俘虜収容所跡」が国指定史跡となりました。

今回の指定で、徳島県内の国指定史跡数は11件となり、平成28年10月に指定された「鳴門板野古墳群」と合わせ、2件が鳴門市内の物件となります。


兵舎第5棟の基礎遺構

「板東俘虜収容所跡」とは

板東俘虜収容所は、第一次世界大戦において、捕虜となったドイツ兵を収容した施設です。大正6年(1917)の開設から同9年(1920)の閉所までの間、最大1,000名余りを収容しました。収容所跡地には兵舎建物跡などの遺構が残り、市ドイツ館などには捕虜の文化的活動を物語る資料も豊富に残されています。近代の軍事及び外国人との交流に関わる遺跡として重要であると評価されています。

なお、当時の収容所の面積は約57,000㎡でしたが、今回の指定は、土地所有者により史跡指定の同意が得られた範囲が対象となっています。

  • 所在地 徳島県鳴門市大麻町桧字尾山谷6番1他 計20筆等
  • 指定面積合計 37,079.20㎡

第2給水施設と引揚者住宅時の給水塔

現在までの調査・保存の経緯

板東俘虜収容所跡に関する現在までの主な経緯は次表に示す通りです。

明治43(1920)年頃以降陸軍第11師団(本部:香川県善通寺市)歩兵第62連隊(本部:徳島市蔵本町)所管の演習場用地として用地の買収が始まる
大正6(1917)年4月板東俘虜収容所の開設(ドイツ兵捕虜の収容開始)
大正9(1920)年4月板東俘虜収容所の閉所(捕虜全員の解放後)
昭和20(1945)年終戦まで陸軍の演習場として使われる
終戦後、大陸引揚者の住宅として利用が始まる
昭和42(1967)年県営大麻団地の建設
昭和53(1978)年度鳴門市ドイツ村公園(子ども広場)の開園
平成18年(2006)年3月31日埋蔵文化財包蔵地として『徳島県遺跡地図』に登載
(遺跡番号 202-293)
平成19(2007)年2月16日収容所跡地内に所在する「ドイツ兵の慰霊碑」が徳島県指定史跡に指定
平成19~23(2007~2011)年度収容所跡地の確認調査(鳴門市教育委員会実施)
発掘調査・地形測量調査
平成30(2018)年10月15日「板東俘虜収容所跡」として国史跡に指定

詳細資料

収容所跡の概要

日本は、大正3(1914)年に中国の青島という町でドイツと戦争し勝利しました。この戦争は「日独戦争」と呼ばれ、ドイツの兵士約1,000人が「捕虜」として日本にやってきます。板東俘虜収容所跡は、このうち約1,000人のドイツの兵士を収容するため、1917(大正6)年4月から1920(大正9)年3月までの3年のあいだ大麻町桧につくられた日本陸軍の施設です。

板東俘虜収容所の広さは約57,000㎡もあり、収容所の外には、サッカー場やテニス場、畑などがドイツの兵士によってつくられていました。

収容所の中には、日本の兵士などが仕事をする管理棟や、ドイツの兵士が生活するための兵舎が立ち並んでいました。また、約1,000人のドイツの兵士が毎日食べる食事をつくるための厨房や、パンをつくるための製パン所など、約50の施設を3か月という短い期間で建てています。

このほか、ドイツの兵士たち自らが建てた商店や別荘、そして収容所で亡くなった戦友のための慰霊碑など約120の施設を建てています。

収容所跡の一部は、現在、「ドイツ村公園子供広場」として整備されていますが、その中には、当時の兵舎建物の基礎の一部や、給水施設、「ドイツ兵の慰霊碑」などが残されています。また、発掘調査により、製パン所の跡から当時のパンを焼く「かまど」や、「将校」と呼ばれる兵士専用の兵舎の基礎が地中に残っていることがわかりました。

この収容所では、所長の「松江豊壽」のはからいによって捕虜の自発的な活動が規則内において大いに認められたことで、文化・スポーツ活動がさかんにおこなわれました。これらの活動については、ドイツの兵士が作ったコンサートやスポーツ大会のイベントプログラムや、『板東俘虜収容所新聞』などの情報誌、当時撮影された写真から知ることができます。

ドイツの兵士の活動の中で、最も有名なのは、1918(大正7)年6月1日に日本で初めてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの「交響曲第9番ニ短調作品125合唱付き」、通称「第九」がアジアで初めて全曲演奏されたことです。 このコンサートの会場は、「兵舎」を改造した「講堂」で開かれますが、合唱の練習は収容所の中にあった「浴室」でおこなわれていたことが当時の記録からわかりました。

このように、板東俘虜収容所跡は、ドイツの兵士の活動記録がたくさん残っていることと、収容所跡が現地に残っていることによって、どの場所で、いつ、どんなことがおこなわれていたかがよくわかる全国的に貴重な歴史遺産です。また、日本とドイツが敵国どうしでありながらも、地元全体が友愛の心でドイツの兵士を受け入れたことが、後の時代にドイツ・リューネブルグ市との交流につながったのです。

板東俘虜収容所跡 施設配置図

収容所跡に残る遺構

収容所正門跡と管理棟

収容所の正門は、「ドイツ村公園子供広場」の南入口の場所ではなく、もう少し西のほうで、現在、県営団地に隣接する公園グラウンドの南端にありました。当時は2本の木の柱を両側に立て、木の扉をつけたものでしたが、今残っているのはコンクリートの四角い柱です。昔はこの正門からまっすぐ北にのびる「大通り」と呼ばれた道があり、その両側にドイツの兵士が暮らしていた「兵舎」が並んでいました。

正門のすぐ東側には日本の兵士たちが勤務した2棟の「管理棟」がありました。今は公園となり平らな土地になっていますが、よく見ると当時の建物の基礎であるレンガが、ほんの一部ですが、きれいに並んで地面に現れているのがわかります。

収容所正門(当時)※
収容所正門跡

兵舎(バラッケ)

収容所内には、ドイツの兵士が生活していた兵舎が10棟作られます。一般の兵士が生活する兵舎が8棟と、「将校」と呼ばれる兵士専用の兵舎が2棟建です。このうち一般の兵士が生活する兵舎は長さが73メートル・幅が7.5メートルもあるとても大きな建物でした。兵舎は「大通り」の西側に4棟、東側に4棟ずつ並んで建てられていました。ドイツの兵士はこの建物をドイツ語で簡素な建物という意味の「バラッケ」と呼んでいました。

「子供広場」の中には、「大通り」の東側にあった4棟の兵舎のそれぞれ東半分にあたる約30メートルのレンガづくりの基礎が残っています。いちばん南側にある兵舎は「第5棟」と呼ばれるものですが、レンガの平らな面に菱形のマークが付いたものがいくつか見つかります。このマークから、収容所のレンガは香川県観音寺市にある「讃岐煉瓦会社」で作られたことがわかりました。レンガをよく見ると、私たちが普段目にするものより大きなレンガであることがわかります。これは大正時代のレンガの大きさが今のものとは違っていたためです。公園の中には新しく積んだレンガや、修理のために使われたレンガもありますが、両方を比べてみると大きさが違うことがよくわかります。

ここに立っていた兵舎の一部は、「道の駅 第九の里」の物産館として再生されました。

建ち並ぶ兵舎と捕虜たち(当時)※
兵舎第5棟の基礎
兵舎跡の刻印レンガ
兵舎の内部(当時)※

貯水槽と洗い場(第2給水施設)

「ドイツ兵の慰霊碑」につづく坂道の園路の東側には、レンガを積んで作られた長方形の貯水槽と、洗い場が残っています。当時、「第2給水施設」と呼ばれた施設に残る貯水槽は長さが約4.1メートル、幅が約2.3メートル、深さが約2.0メートルで、使われていたころはこの上に屋根が付いていました。ここに溜められた水は、兵舎の近くまで地中に埋められた配水管(土管)で送られていました。

貯水槽の前には低い位置に「洗い場」があります。貯水槽の水を取り出すために鉄管が通されていますが、現在使われている「ひねって水を出す」蛇口ではなく、木で作られた筒の形をした栓を抜いたり差したりすることで水を出していました。

この貯水槽と同じ構造のものが、約70メートル西側にも残っており、当時は東側の「第1」に続き、「第2給水施設」と呼ばれていました。ちなみに「第1」が、兵舎の第1~4棟、「第2」が兵舎の第5~8棟のために、それぞれ使われていました。

なお、貯水槽の横にあるコンクリート製の塔は、収容所跡が第二次大戦終了後に大陸引き揚げ者住宅として使用されていた時に建設された「給水塔」で、ドイツの兵士が生活していた当時にはまだありませんでした。

捕虜による貯水槽と洗い場のスケッチ ※
貯水槽と洗い場(第2給水施設)

製パン所(パン焼き小屋,製麺麭所)

第2給水施設の西側には、ドイツの兵士が毎日パンを焼いていた「製パン所」がありました。建物は壊されていますが、地中には小屋の跡や、小屋の中にあったパンを焼く「かまど」跡が見つかっています。小屋の大きさは長さが約9.5メートル、幅が約6.5メートルありました。

小屋の中には長さが約4.6メートル、幅が約3.7メートルもある長方形の大きな「かまど」があり、これでパンを焼いていました。

最初の「かまど」は日本人が作ったものでしたが、よく故障したことと、ドイツの兵士が好むパンが焼けなかったことから、自分たちで作り直す事を日本の陸軍に願い出ています。作り直しの許可がでて、新たに作った「かまど」で焼いたパンがとてもおいしかったことが、収容所で発行された『板東俘虜収容所新聞(ディ・バラッケ)』に書かれています。

製パン所でパンを焼いていたのはすべてドイツの兵士です。パン職人や軍隊でパンを焼く仕事をしていた人たちが捕虜として収容所で生活していたこから、自分たちが食べるパンは自分たちで作ることができました。

このほか、板東俘虜収容所ではドイツの兵士が身につけていた専門の仕事をいかした活動がたくさんおこなわれており、ソーセージ作りや菓子づくりを地域住民に教えたり、印刷所を作って新聞や絵はがきを発行したり、家具やヨットまで作って、収容所の中で販売する者もいました。

製パン所のかまどの基礎
当時の製パン所の内部 ※

ドイツ兵の慰霊碑(徳島県指定史跡)

収容所の中には二つの池があります。「製パン所」から北にのびる山すその道をのぼった「上池」とよばれる池の東側には、徳島・松山・丸亀および板東の各収容所で亡くなったドイツの兵士11名を慰霊する記念碑が建てられています。この記念碑は大正8(1919)年にドイツの兵士の手によって建てられたもので、大きさは、幅・奥行きとも1.2メートル、高さ約2メートルで、収容所周辺で採れる「和泉砂岩」と呼ばれる石とコンクリートで作られた大きな柱の形をしたものです。

平らな面が4つあり、そこには一つの面に1枚ずつ花崗岩(御影石)でつくられたプレートが埋め込まれています。このプレートには正面に亡くなった兵士を慰霊するための言葉が、残りの三面には亡くなった兵士の名前と生年月日、亡くなった日、軍隊での所属が刻まれています。

慰霊碑の建設は大正8(1919)年2月17日からはじまり、同じ年の8月31日には完成を祝う除幕式がおこなわれました。除幕式(じょまくしき)は最初8月17日におこなわれる予定でしたが、二度延期されています。二度目は式典で指揮を担当する「M.A.K.オーケストラ」の指揮者ハンゼンが式典前に帰国することになったためです。また、除幕式での合唱の歌い手が70名足りないため、広告を出して参加を呼びかけています。8月31日の除幕式はハンゼンから引き継いだヴェルナーが指揮を担当しました。

収容所閉所以降、手入れをする人もなく荒れ果てていた「ドイツ兵の慰霊碑」は、昭和22(1947)年に地元の住民によって再発見され、その後の清掃活動がきっかけとなり、再び板東の人々と元ドイツ人捕虜との交流が始まりました。これがのちに鳴門市とドイツ・リューネブルグ市との国際交流が始まるきっかけとなった象徴的な碑であることが評価され、平成19(2007)年に徳島県の「史跡」に指定されました。

竣工当時の慰霊碑 ※
ドイツ兵の慰霊碑(現在)

周辺にあるその他の関連史跡

ドイツ橋(徳島県指定史跡)

板東俘虜収容所の北東に鎮座する大麻比古神社の境内にある小川に架かる石橋で、地元住民が通りやすくなるよう壊れた古い木橋に替わる橋として建設されました。設計はドイツの兵士ドイッチュマンで、建設工事もドイツの兵士がおこなっています。大正8(1919)年4月初めから建設を開始し、その後、半年ほどかかって完成しました。石橋は全長9メートル、全幅2.1メートル、高さ3.2メートルの大きさで、小川が流れる橋の真ん中には「アーチ」と呼ばれる石組みの空間があります。

ドイツの兵士たちは板東で生活した3年の間に6つの木橋と5つの石橋を建設しました。ドイツ橋の少し東側には、同じくドイツの兵士が建設した「メガネ橋」が補強修理を受けて残っています。

ドイツ橋は、小さな石橋ですが、ドイツ人が設計と建設した石橋としては国内でただひとつのものであり、地元住民とドイツの兵士との交流を証として評価され、平成16(2004)年に徳島県の「史跡」に指定されました。

ドイツ橋(現在)

おことわり
本ページに掲載した(※)の付いた古写真と捕虜のスケッチは鳴門市ドイツ館の所蔵資料です。

うずひめちゃん
うずしおくん