渦の国 鳴門
~ 魅力あふれる鳴門の街 ~

国指定重要文化財(建造物) ふくながけじゅうたく 福永家住宅

所在地 鳴門市鳴門町高島字浜中148・149・150
時代 江戸
構造等 主屋・離座敷・土蔵・附棟札一枚・納屋・納屋・薪納屋・附中門一棟・宅地及び塩田
指定年月日 昭和51年5月20日

1.文化財の概要

(1)立地環境

福永家住宅は、かつて広大な塩田が広がっていた鳴門町高島地区の西端に位置し、西側は小鳴門海峡、南側は水尾川に面している。宅地は塩田の一画にあり、ほぼ30m四方でその東側に製塩施設を含む突出部があり、道に接続していた(現在は東側に塩田公園がある)。
宅地は1,466㎡余、塩田は6,499㎡が残っており、指定を受けている(宅地の告示面積は1,383.31㎡)。宅地は南面が昭和44年(1969)ごろ堤防で築かれ水尾川に面し、塩田のまわりは石垣で築かれ、その西側は小鳴門海峡に面している。

(2)創立沿革

福永家は、「先祖年代記」によると、もと板野郡黒崎村(現在の鳴門市撫養町黒崎)に住んでいたが、寛文年中(1661~1673)に高島村で塩田を開き、代々塩業を営んできた。
現在の建物は、棟札により主屋が文政11年(1828)、離座敷が天保3年(1832)、土蔵が天保4年(1833)に建てられた。そのほかの建物のうち、塩納屋は明治42年(1909)に改築されたが、ほかの建物は主屋が建てられた文政11年から天保4年に建てられたと考えられる。
昭和14年11月に合同塩業組合(高島字山路)の製塩工場が完成してから釜屋は使わなくなり、昭和15年に茅葺屋根や煙突等を撤去した。その後、鹹水溜の上屋を平濃縮台に改築され、塩納屋以外は改築されずにそのままになった。
昭和55年度~58年度の保存修理工事のとき、鹹水溜の上屋を茅葺に復し、釜屋を復原した。
平成9年12月18日、高島字浜中151番の公園(塩田)を鳴門市に所有権移転した。
平成20年8月16日、鹹水溜・釜屋・塩納屋・塩納屋(ポンプ室)・薪納屋の建造物が個人から鳴門市に寄付された。
平成24年4月3日、高島字浜中150番の宅地及び主屋・土蔵・離座敷・納屋の建造物が個人から鳴門市へ寄付された。

(3)施設の性格

主屋・離座敷・土蔵及び納屋は、福永家家人の居宅として使用された。また、入浜塩田は鹹水採取のために、製塩施設の鹹水溜・釜屋・塩納屋・薪納屋は塩製造のために使用された。

(4)主な改造時期とその内容

  • 釜屋
    昭和14年11月、高島に合同製塩工場ができて昭和15年に釜屋は使われなくなった。
  • 鹹水溜
    昭和37年に、上屋の茅葺屋根を取り払い、平濃縮台に改造された。
  • 塩納屋
    明治42年(1909)に改築された。
    昭和14年11月、高島に合同製塩工場ができて不要となり、用途を変更した。
  • 塩田
    大正時代、沼井が粘土製からコンクリート製に改造された。昭和28年~3年に福永家住宅として残っている入浜塩田以外の鳴門市内のすべての入浜塩田は流下式塩田に転換した。さらに、市内の流下式塩田は第4次塩業整理により昭和47年1月に廃止した。

2.文化財の価値

鳴門の塩田開発の始まりは慶長4(1599)年、四国征伐の戦功で阿波に入国していた蜂須賀家政が、播磨竜野(兵庫県)から馬居七郎兵衛・大谷五郎右衛門を招いたのが始まりといわれている。福永家住宅は文政11(1828)年~天保4(1833)年の間に建てられた製塩業の民家であり、製塩施設、入浜塩田、住居部分が現在もそろって残されているのは全国でも唯一のものである。
主屋は文政11(1828)年の建築で、ミセ・オモテ・ナイショ・オクの4部屋とカマヤ・ニワの土間で構成されている。前庭に面するミセ・オモテには、濡縁が廻らされ、オクには箱階段で上がる二階がある。
離座敷は、天保3(1832)年の建築で、床の間を持つ6畳と4畳の2部屋あり、主屋と渡廊下で接続し、前庭に面する所には濡縁が廻らされ書院風になっている。
土蔵は、天保4(1833)年の建築で、床および内壁は板張りで、離座敷に接して建っている。
納屋は、4室に区切り、更に南の間を2室に区切っている。南西隅の間は風呂場、南東の間は便所(浜子用)、南から第2・3室は漬物置き場、第4室は板敷の間で物置になっている。
塩納屋は、イダシ場と塩を計量して袋詰めにする2部屋からなり、イダシ場では釜屋から運ばれた塩が一週間程度貯蔵され、自然に苦汁の除去と乾燥が行われる。
薪納屋は、石炭の付火用の薪を貯蔵する。
鹹水溜は「坪」ともいわれ、下部は粘土で築造された貯水槽、上屋は茅葺きの屋根を架けた施設である。「坪」は内面で13.2m×4.98m、深さ2.4mを測り、650石(117,253㍑)の鹹水が貯蔵できる。地下には配管があり、釜屋の「タブリ桶」へ送水する。「坪」の梁上には歩み板、竹簀子を張り、塩田用具の収納と釜焚夫の就寝の場所兼ねていた。
釜屋は、昭和15年から煎熬方法が変わったため、地域すべての釜屋が取り壊され、共同製塩場が建てられた。解体修理の際、発掘調査と参考資料を基礎に復元されている。中央部に石釜を築き、煙道を設けて外に煙突を築く。内部の煙道は上部を平坦とし、石釜寄りに「温め鍋」を据える。鹹水溜から「タブリ桶」に送られた鹹水は釣瓶で汲み上げられ、「こしおけ」で濾過したあと「温め鍋」で余熱を与えた後石窯で煎熬される。石釜南にある「イダシ場」は、煎熬した塩の苦汁を取る場所である。
塩田は、海水から濃い塩水「鹹水」を採取するための施設で、堤防で囲まれた内部に粘土で床面を形成し、撒砂を敷いたものである。床面は干満の中間位置とし、海水が毛細管現象で床面に上昇するように調整してつくった。毛細管現象で撒砂に附着したものを粘土製の沼井台に入れ、海水を掛けることで濃い海水が採取される。これを「受壷」に集めたのち荷桶で鹹水溜に運ばれる。福永家住宅の塩田も近代化され、コンクリート製の沼井台が導入されたり、一部流下式塩田に構造変化しているが、往時の入浜式塩田の姿を残すものである。
このように福永家住宅及び塩田は、国内で現存する唯一の製塩関連施設で、日本の製塩技術の発展の過程を示す重要な建物群である。

3.文化財保護の経緯

(1)保存事業履歴

昭和55~58(1980~1983)年度 保存修理工事
昭和57~58(1982~1983)年度 防災施設工事
平成7(1995)年度 兵庫県南部地震災害復旧修理工事
平成18(2006)年度 釜屋補修工事
平成21(2009)年度 鹹水溜保存修理工事

(2)保存事業の概要

(1)主屋

【昭和55年12月~昭和58年11月 保存修理】
昭和36年(1961)9月襲来の第二室戸台風による洪水で屋敷が浸水してから建物が急激に北側への傾きが大きくなり補強の突っ張りをしていた。建物全体に改造がおこなわれていたので、建築当時に復した解体復原修理がおこなわれた。

【平成7年7月~平成8年3月 兵庫県南部地震災害復旧修理工事】
地震により損傷した漆喰壁・土壁・かまど、自動火災報知設備の復旧工事

(2)離座敷

【昭和55年12月~昭和58年11月 保存修理】
主屋と同様に第二室戸台風や経年変化により破損が目立っていた。すべての礎石を掘り返しての解体復原修理がおこなわれた。

【平成7年7月~平成8年3月 兵庫県南部地震災害復旧修理工事】
地震により損傷した土壁、自動火災報知設備の復旧工事

(3)土蔵

【昭和56年1月~昭和58年11月 保存修理】
主屋と同様に第二室戸台風や経年変化により破損が目立っていた。すべての礎石を掘り返しての解体復原修理がおこなわれた。

【平成7年7月~平成8年3月 兵庫県南部地震災害復旧修理工事】
地震により損傷した庇・水切り銅板・棒漆喰の復旧工事

(4)納屋

【昭和56年3月~昭和58年11月 保存修理】
主屋と同様に第二室戸台風や経年変化により破損が目立っていた。すべての礎石を掘り返しての解体復原修理がおこなわれた。

【平成7年7月~平成8年3月 兵庫県南部地震災害復旧修理工事】
地震により損傷した丸瓦、自動火災報知設備の復旧工事

(5)塩納屋

【昭和57年1月~昭和58年11月 保存修理】
第二室戸台風後、塩納屋に接する水尾川の堤防は嵩上げがおこなわれたが、塩納屋の南面の基礎となる堤防は以前の高さのままになっていた(まわりの堤防より低くなっていた)。また、建物は大きく改造されていたので、建築当時の状態に解体復元された。

塩納屋は往時2棟あったが、すでに東側の塩納屋は取り壊されてなかった。復元に際しては、取り壊された1棟の外見を西側の塩納屋と同様に仕上げ、中は耐火構造のポンプ室とした。

(6)薪納屋

【昭和57年12月~昭和58年11月 保存修理】
主屋と同様に第二室戸台風や経年変化により破損が目立っていた。すべての礎石を掘り返しての解体復原修理がおこなわれた。

(7)中門

【昭和55年12月~昭和58年11月 保存修理】
地覆石は狂いがなかったため据え直しをおこなわずに門を建てた。

【平成7年7月~平成8年3月 兵庫県南部地震災害復旧修理工事】地震により損傷した軒瓦・棒漆喰の復旧工事

(8)鹹水溜

【昭和56年12月~昭和58年2月 保存修理】
芝土により築かれた坪の表面部分を在来工法により築き直し、小屋組をおこない、屋根を従来の茅葺として復原した。なお、芝土は従来採取していた松茂町の旧吉野川河口付近が開発により採取できなかったので、旧鹹水溜の芝土を掘り出して再使用した。

【平成21年9月~平成22年3月 屋根の茅葺替工事】
上記の復原以降、度重なる台風やシロアリ被害により茅屋根や柱等が損傷したため、茅葺への葺き替えと柱等の補修工事をおこなった。

(9)釜屋

【昭和56年9月~昭和58年3月 復原修理】
昭和14年11月に高島に合同製塩工場が完成し釜屋が使われなくなり、腰高以上の部位は撤去されていた。修理工事に伴う調査によって腰下部分を表すとともに、古写真、類例模型、元従業員からの聞き取り、文献資料等によって腰上部分の構造形式が明らかになったので、煎熬(せんごう)設備を含めて復旧整備した。

【平成3年1月~平成3年3月 石釜修復工事】
台風襲来の度に釜屋内部が50~70㎝程度冠水したことにより、石釜が破損したため、修復工事をおこなった。

【平成7年7月~平成8年3月 兵庫県南部地震災害復旧修理工事】地震により損傷した石釜、自動火災報知設備の復旧工事

【平成18年12月~平成19年2月 屋根補修工事】
上記の復原以降、度重なる台風やシロアリ被害により茅葺屋根や柱等が損傷したため、茅葺からトタン葺への葺き替えと柱等の補修工事をおこなった。

(10)敷地石垣

【昭和56年2月~昭和58年9月 保存修理】
塩田側石垣のうち、主屋東側から鹹水溜北側に至る後世積直しと補強石垣、南側水路よりの土手石垣は根石から上をいったん解体して復原修理がおこなわれた。

(11)石積塀

【昭和57年7月~昭和58年11月 保存修理】
主屋南側の一部を除く石積塀すべてを解体し、積み直した。


建物配置図

  • 釜屋
  • 釜屋内部 復元石釜
  • 鹹水溜 東側より
  • 鹹水溜 内部
  • 主屋 内部
  • 主屋 竈
  • 主屋 水尾(にお)を挟んで南側から
  • 離座敷
  • 薪納屋
  • 塩納屋
  • 土蔵

位置図

うずひめちゃん
うずしおくん