渦の国 鳴門
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国指定史跡 ばんどうふりょしゅうようしょあと 板東俘虜収容所跡

所在地 大麻町板東字桧尾山谷6番1他 計20筆等
時代 大正
指定対象地域の面積 37,079.20㎡
指定年月日 平成30年10月15日

1.史跡の内容について

(1)遺跡の立地と現状

板東俘虜収容所跡は、徳島県北東部の鳴門市内西部に所在し、香川県との間で東西にのびる阿讃山地南麓の南側に開けた扇状地上に位置する。収容所跡の現状は、陸軍用地を引き継いだ国有地(財務省所管)を鳴門市が無償貸与されて整備した収容所跡地の記念公園(鳴門市ドイツ村公園)が大半を占め、その他は山林・畑・ため池・公衆用道路・民間宅地により構成される。一部で原地形の改変があるものの遺構の遺存状態はおおむね良好で、鳴門市教育委員会では、平成19~23年度に、遺跡の状況を把握するための確認調査を実施した。

(2)板東俘虜収容所の概要

1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟にもとづき、中国青島(ちんたお)に権益をもつドイツと戦闘を行ってこれに勝利し、総勢約4700名に及ぶドイツ兵を捕虜として日本国内に移送することになる。国内には当初12ヶ所の収容所が設置されたが、いずれも寺院や公会堂など既存施設を利用したものが多く、その後新設された収容所など6ヶ所に統合された。板東俘虜収容所はこのうちの1つであり、四国に当初設置された松山・丸亀・徳島の3ヶ所の収容所を統合する形で設置されると共に、四国外の収容所からも捕虜を移送して、1917(大正6)年4月から1920(大正9)年4月までの約3年間に最大1000名余りの捕虜が収容された。約57,000㎡の敷地内には、日本側の管理棟が1棟、下士官以下の大半の捕虜を収容した兵舎(以下、「廠舎(しょうしゃ)」とする)が8棟、将校用の廠舎が2棟と、これらに付随する浴室・調理場・便所・洗浄施設および病院・製パン所を含めて日本軍の建設した施設が54棟存在したほか、捕虜自身が建設した施設も127棟あった。

(3)発掘調査による確認遺構

収容所内の施設は、レンガ積み基礎に木造平屋建ての上屋を載せる構造を基本としている。現在、収容所跡地に整備されている鳴門市ドイツ村公園内には、レンガ基礎の一部が露出して保存されているが、大半の遺構は造成等により埋没しており、原位置の把握が困難となっていた。調査にあたっては、収容期間中の1919(大正8)年にドイツ兵捕虜が作成した所内の測量図『要図(ようず)』を元にして現況地形と照らし合わせ、施設の位置を絞り込んだ上で調査区を設定し、収容所を構成する主要な建物について、建物の配置、基礎部分の構造および残存状況の確認を行った。
下士官以下の捕虜を収容した廠舎建物は、測量図によると1棟の規模が幅7.5m、長さ72.9mとされている。公園内には長さ約30mのレンガ積み基礎が4棟分残されており、このうち廠舎第5棟の発掘調査では、全長の約1/2にあたる約36mの残存を確認した。なお、収容所の各施設で築かれたレンガ積みには、いわゆる「イギリス積み」が採用されており、廠舎遺構で確認したレンガ基礎の幅や積み上げる段の数は、その他の施設とも共通することが判明している。また、建物基礎に使用されたレンガの刻印から、香川県観音寺市(かんおんじし)の讃岐(さぬき)煉瓦(れんが)会社の製品であることが判明している。
第1将校廠舎の調査では、測量図に幅7.5m、全長約45mの規模で記載された建物の南端部で、地下に埋没していた基礎遺構の残存を確認したほか、収容所閉所後に陸軍演習場として利用された際、建物南端部を拡張して増築した痕跡とみられるレンガ基礎を8.3mの長さで確認した。
捕虜に支給するパンを製造した製パン所は、掘立柱(ほったてばしら)建物であることが確認され、当時の写真資料からは把握できなかった構造の特徴も判明した。この屋内に設置された製パン竃は、南北4.6m・東西3.7mの規模でレンガ積みの基礎が造られ、竃の南側には作業用のピットが付設されていた。この製パン竃は、当初陸軍が建設したものの、度々破損していたことから、捕虜の設計・施工による竃の改築が行われており、この経緯を記した陸軍文書や捕虜の発行した収容所新聞が見つかっている。確認した遺構はこの改築後の竃の基礎にあたると考えられる。
捕虜の私物や土木作業用具などを保管していた倉庫棟の調査では、測量図に記された東西9.3m、南北約37mの建物のうち北端部分の基礎を検出した。しかし、レンガ積みの基礎は、上半部を撤去した後で残りの基礎を利用して、その上部にコンクリートの土台と花崗岩(かこうがん)の柱礎石を設置していた。これは、収容所閉所後に陸軍演習場の厩舎(きゅうしゃ)施設に建て替えられた際の基礎と考えられ、閉所後の施設利用の変遷も把握することができた。
このほかにも、収容所管理棟や廠舎第2棟、将校棟附属厨房、酒保(しゅほ)(売店)附属便所、給水施設および上下水管について調査をおこない、これらについても配置や基礎構造を確認することができた。また、収容生活中に死亡したドイツ兵を弔うための慰霊碑(ドイツ兵の慰霊碑:徳島県指定史跡 H19.2.16指定)が捕虜の手によって所内に建立されており、これに付随する池に面した石垣も良好な状態で残存することを確認した。

(4)関連資料による遺跡の検証

当時、日本は「ハーグ陸戦条約」を批准して国内法規を整備し、捕虜に対して人道的に対応していた。このことに加え、板東俘虜収容所では、管理者(所長の松江(まつえ)豊(とよ)壽(ひさ))の運営方針によって、捕虜による様々な活動が広く容認された。その結果、所内ではスポーツや音楽、演劇、講演会などが活発に行われたほか、捕虜製作品の展示・販売や、地域における橋の建設、地域住民とおこなった生産活動や文化活動等を通して、捕虜と周辺住民との間に友好関係が芽生えた。収容所内外の捕虜の活動状況は、彼らの発行した所内新聞や情報誌などから詳細に知ることができるほか、所内で制作されたカラー刷りの印刷物や当時の状況を撮影した写真も数多く残されており、これらは確認した遺構を含め、各施設がどのように使われたかを理解するための貴重な資料となっている。また、日本陸軍側が作成した文書史料も多く残されており、これによって収容所設置前後の状況や各施設の建設、捕虜の動向や取扱いの経緯などを知ることができる。註1)

(5)総括

板東俘虜収容所跡は、国内における第一次世界大戦時の捕虜収容所としては最も遺構の残存状態が良好な遺跡である。発掘調査によって構築物の規模や構造、増改築の状況を窺うことのできる情報が多く得られたことと併せ、当時の具体的な収容状況を窺うことのできる文献資料等が豊富に残ることから、これらは遺跡を理解する上で重要かつ不可分の関連性を持っている。また、戦争という緊張状態にありながら、収容所内外で捕虜による様々な活動が行われたことや、地域住民との友好的な交流が行われたことも、近代の戦争関連遺跡である板東俘虜収容所跡の歴史的意義を考える上で大きな特色となっている。このことから、板東俘虜収容所跡は、第一次世界大戦に関する国内の状況を窺うことができる数少ない関連遺跡であると共に、交戦国間における市民的活動および文化交流の事跡を象徴する遺跡であり、近代史を考える上で重要である。

註1)板東俘虜収容所に関する印刷物・写真等の資料は、鳴門市ドイツ館、ドイツ−日本研究所(DIJ)のほか、ドイツ・ボンにあるベートーヴェン・ハウス・ボンなどの調査研究機関に収集・保管されている。また、日本陸軍に関する文書史料は、国立公文書館にあるアジア歴史資料センターのデータベース内で防衛省防衛研究所図書館保管資料として公開されている。

2.現状及び現在までの調査・保存の経緯

板東俘虜収容所跡に関する現在までの主な経緯は次表に示す通りである。

明治43(1920)年頃以降陸軍第11師団(本部:香川県善通寺市)歩兵第62連隊(本部:徳島市蔵本町)所管の演習場用地として用地の買収が始まる
大正6(1917)年4月板東俘虜収容所の開設(ドイツ兵捕虜の収容開始)
大正9(1920)年4月板東俘虜収容所の閉所(捕虜全員の解放後)
昭和20(1945)年終戦まで陸軍の演習場として使われる
終戦後、大陸引揚者の住宅として利用が始まる
昭和42(1967)年県営大麻団地の建設
昭和53(1978)年度鳴門市ドイツ村公園(子ども広場)の開園
平成18年(2006)年3月31日埋蔵文化財包蔵地として『徳島県遺跡地図』に登載
(遺跡番号 202-293)
平成19(2007)年2月16日収容所跡地内に所在する「ドイツ兵の慰霊碑」が徳島県指定史跡に指定
平成19~23(2007~2011)年度収容所跡地の確認調査(鳴門市教育委員会実施)
発掘調査・地形測量調査

位置図

うずひめちゃん
うずしおくん