Vol.6 寒川惇さん

列伝第6回

 

◆バスケットボールはいつから始められましたか。学生時代のことについて教えてください。
中学校1年生からはじめました。当時は、体育館もなかったので運動場で木のリングとボードを使って練習をしていました。ポジションは、中学時代はフォワードで、高校に入ってからはトップガードをしていました。技術面はもちろんですが、「礼儀、規律、摂生、実行」といったことを教えていただき、これらはスポーツに限らず日常生活においても当然の心得として徹底的にたたき込まれました。練習時の水分補給も今とは全然違ってなかなか許されなかったので厳しかったです。

◆社会人になられてからもバスケットボールを続けられたとのことですが、成績も含めてどのような活動をされてきましたか。
高校卒業後に鳴門市役所に入庁し、1年後の昭和35年に市職員と鳴門高校OB、市内のバスケットボール愛好家らと「鳴門市バスケットボールクラブ」を結成しました。結成当時はなかなか結果が出せず苦しい思いをしましたが、仕事の合間を縫っての練習や強化合宿、鳴門高校の選手指導を行い、県大会や四国大会で勝利するチームに成長しました。成績は、昭和41年開催の大分国体に初出場。昭和50年に開催された全国クラブチームバスケットボール選手権大会では第1回大会から3年連続で準優勝を果たし、3位3回、5位5回と11年連続四国代表として出場しました。また、四国大会優勝24回、国体出場8回など充実した活動成績を収めました。

◆仕事の合間を縫って練習をされていたとのことですが、練習時間の確保や内容はどのようにされていましたか。
週3回の練習で、平日は仕事終わりに2時間程度練習をしていました。練習内容は、前半は走り込みを中心に行い、後半はシュート練習やフォーメーション練習をしていました。また、主にツーメン、スリーメン、クリスクロスや速攻の繰り返しを行い、限られた時間の中、息をつく間もなく練習に取り組んでいました。ただし、週3回の練習以外にも個人個人が陰ながら練習はしていましたね。チーム全員が練習量なら学生にも負けない気持ちで「走って、走って、走り抜く、田舎のバスケット」をモットーに、高度な技術ではなくスタミナとスピードで戦ってきました。私が厳しい練習を乗り越えられたのは、先輩、同僚、後輩が気軽に話ができる雰囲気のチームだったからだと思います。チームワークはとても良かったです。そして、各大会の成績や練習内容、チーム運営等が認められ、鳴門市バスケットボールクラブが昭和56年に文部大臣表彰を受賞しました。滅多にいただける賞ではないので、大変貴重な経験をさせていただきました。

◆輝かしい成績を収めて来られましたが、最も苦労したことは何ですか。
クラブチーム選手権大会や国民体育大会など全国各地で開催される大会に出場しておりましたので、最も苦労したことは遠征資金の調達でしたが、当時のマネージャー(故 北野隆一氏)の御尽力のおかげもあり、事業所やOB、友人をはじめ多くの方々の御支援・御協力を賜ることができ、ここまで取り組むことができました。また、週末は家を空けることになりますので、家族の理解と協力が大きな支えとなりました。 御支援・御協力いただきました方々には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

◆いつまで現役選手として活動されましたか。
バスケットボールは50歳くらいまで続けたと思います。ただ、大会に出場すると同年代の方たちは監督やコーチになっているんですよね。私がユニフォームを着てコートに出て行くと「お前、まだ現役でしよんかー」とよく笑われていました。また、引退後はソフトバレーボールにチャレンジしました。同じ団体競技ですが、バスケットボールとは違う楽しさがあり、多くの人とも交流ができて大変良い経験になりました。数年前まで続けていたのですが、足を痛めてしまい、現在は残念ながらできていません。生涯現役という思いを持っていたのですが、なかなか厳しいですね(笑)。

◆現役引退後はどのように過ごされていましたか。
ミニバスケットボールの指導に携わってきました。20年以上はしていたと思います。私の中で「人は褒められて伸び、叱って育つ」という考えがあり、褒めて伸ばすことを大切にずっと指導してきました。何にせよ褒める方が私自身も気持ちが良いですから(笑)。他には、鳴門市バスケットボール協会の理事や徳島県バスケットボール協会の事務局長、副理事長を務めました。事務局長をしていた平成10年に明石海峡大橋が開通したことを受け、「神戸~鳴門ルート全通記念 第14回アジア女子ジュニアバスケットボール選手権大会」がアスティとくしまで開催されました。アジア各国から総勢12チーム参加する大きな大会でしたので開催準備等に奮闘した記憶が残っております。 また、平成13年に退職したときに、鳴門市と板野郡のミニバスケットボール大会があったのですが、周りの人たちの勧めで大会名を寒川杯とすることになりました。初めはお断りさせていただいたのですが、押し切られてしまいました(笑)。それで優勝・準優勝カップを作り、今年4月の大会で19回目を迎えることとなりました。役員をしていただいている関係者の方々には大変お世話になっており、心より感謝しております。

◆これからスポーツを始めようとしている子どもたちにメッセージをお願いします。
バスケットボールだけでなく他のスポーツにおいても、遊びからでも構わないので、まずは楽しいと思えることが大切です。また、自分の得意なものを見出すには一つのことばかりだけでなく、いろんなことにチャレンジすることも一つの方法です。その中で自分に合ったスポーツを見出し、好きになって楽しく続けてもらえればと思います。最後になりましたが、どのスポーツを始めるにしても「1人は皆のために、皆は1人のために」という言葉を胸に頑張ってください。

 

Vol.6 寒川惇さん

寒川 惇(かんがわ まこと)
昭和16年2月2日生まれ。鳴門市出身。北灘西小学校、北灘中学校、鳴門高等学校。中学校1年生からバスケットボールを始め、高校卒業後は鳴門市役所に入庁し、競技を続ける。昭和35年に鳴門市バスケットボールクラブを結成し、昭和41年開催の大分国体に初出場。昭和50年から開催された全国クラブチームバスケットボール選手権大会では第1回大会から3年連続準優勝を果たす。現役時代は四国大会優勝24回、国体出場8回など充実した活動成績を収め、昭和56年に文部大臣表彰を受賞。選手生活以外にも子どもたちへの指導や寒川杯(大会)を開催するほか、鳴門市バスケットボール協会理事や徳島県バスケットボール協会事務局長、副理事長などを歴任。

 

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