市の主な都市公園の紹介
うずしおふれあい公園
市街地の中心部にある旧市営球場の跡地を市民の交流の場にし、かつ魅力のある公園として、子どもから高齢者まで多くの人が集い憩える多目的公園として整備されました。公園の名称は市民に公募して命名されました。
公園面積は約2.3haあり、エントランス広場、芝生広場、プロムナード、子どもの森、散策の小道、ジョギングコース、駐車場からなり、公園全体が森のようなイメージとなっております。
公園には高木及び中木が約900本、低木地被類は約1万本が植えられております。中央には約7,000m2の芝生広場があります。
12月~2月:カンツバキ 2月~4月:ヤブツバキ、ソメイヨシノ、ベニヤマザクラ、オオシマザクラ、モクレン、コブシ 4月~6月:キリシマツツジ、ヒラドツツジ 5月~7月:エゴノキ、ヤマボウシ、シャラノキ、クチナシ、ヒペリカムカリシナム、ダイアンサス、シロバナサギゴケ 7月~8月:ハマボウ 9月:アキニレ 10月:キンモクセイ、ヒイラギモクセイ 4月~11月:アベリア、アベリアエドワードゴーチャー |
子どもの森には、子ども達が自由にのびのびと遊べる遊具と大人も楽しめる遊具があります。
駐車場は公園北側にあり、約60台を収用できます。駐車場の下には緊急貯水槽が埋設されており、災害時に対応できるようになっています。
ドイツ村公園
なぜ鳴門にドイツ村公園があるかというと、話は1914年(大正3年)にさかのぼります。この年第一次世界大戦が勃発し、日本は連合国側で参戦して中国の青島(チンタオ)にあるドイツ軍を攻撃してこれを攻略しました。このとき日本の捕虜となったドイツ軍兵士の内の約1,000人が板東俘虜収容所(現在の鳴門市大麻町桧)に送られ、大正6年から9年までの約3年間をこの地で過ごしました。
この時の板東俘虜収容所長であった会津出身の松江豊寿(まつえ・とよひさ)大佐は敗者の心情を理解する人格者であったため、ドイツ兵たちは寛大な処遇を受け比較的自由な収容所生活をおくることができ、地元住民とも交流することができました。
地元の人々は俘虜達を「ドイツさん」と呼び国境を越えて親しく交流し互いの文化を認め合うことができました。そして当時、科学技術・文化芸術の面で世界の先進国であったドイツの兵達から製パン・洋菓子、酪農技術を教わり、建築・設計、スポーツ、音楽等にわたるまで多くのことを学びました。
また、ベートーヴェンの「第九交響曲」がアジアで初めて演奏されたのは、この収容所であったとされております。
1972年(昭和47年)この麗しい交流の歴史を永遠に伝えようとドイツ館(初代)が建てられたのを契機に、収容所跡地とその周辺を「ドイツ村公園」として都市計画決定し、総合公園としてこれまで、子供広場(板東俘虜収容所跡地)、ばんどうの鐘、新ドイツ館、ドイツ館横の中央広場、板東谷川河川敷、賀川豊彦記念館、道の駅「第九の里」が整備され引き続き完成に向け整備が進められております。
こうしたことが歴史的・文化的資源を活用した公園として評価を受け、2006年(平成18年)10月の日本の歴史公園100選に選定されました。
なお、ドイツ館・第九・賀川豊彦記念館・道の駅「第九の里」に関しては本市のウェブサイトを参照してください。
撫養川親水公園
撫養川親水公園は、「撫養川・新池川水辺空間整備計画」に基づき整備された水辺公園で、鳴門市文化会館周辺を指しています。撫養川左岸の城見橋北詰には同じ事業で整備された東浜第2公園があり、水面に桟敷広場があります。
本公園は撫養川が昭和63年に建設省(現国土交通省)により「ふるさとの川モデル河川」に指定されたことにより、撫養川と新池川の合流部を中心に、地元の鳴門市が公園部分を、河川管理者の徳島県が河川部分を、一体的に整備したものです。
この施設の整備にあたっては、撫養川・新池川水辺空間整備計画検討委員会において整備計画を策定し、「水上ステージ」や、グリム童話の場面を再現した石の立体壁画を配置している「グリムメルヘンプロムナード」など趣向を凝らした施設を整備しています。
平成12年度には、本公園は地域の個性や魅力を創出している各種の良好な社会資本を発掘し、これを全国に広く紹介することにより、社会資本整備にあたっての創意・工夫を促し、個性豊かな地域づくりに資することを目的として昭和61年度に創設された「手づくり郷土(ふるさと)賞」に選定され認定証が授与されました。