なると第九とは・・・

1918年6月1日。徳島県鳴門市にある板東俘虜(ふりょ)収容所でドイツ兵捕虜によって、ベートーヴェン「第九」交響曲がアジアで初めて全曲演奏されました。

初演の背景には、収容所所長である松江豊寿をはじめとする、職員の捕虜に対する人道的な処遇や、捕虜と地元民との国境を越えた心温まる交流など、まさに「第九」が持つ人類愛の精神を体現した史実がありました。

その精神は現在でも市民を中心に受け継がれ、毎年6月第一日曜日に開催している「第九」演奏会をはじめ、ドイツ・リューネブルク市との姉妹都市交流、友好のコスモス交流など、多くの活動が行われています。

「第九」アジア初演。またその背景にある戦争の最中、国境を越え育まれた友好の絆。そして今なお鳴門市民に引き継がれている「第九」やドイツ兵捕虜が残してくれた財産。

これらが、「なると第九」の原点であり、他の「第九」にはない鳴門市固有の財産であるとともに、こうした背景を持つ「なると第九」は、鳴門市から世界に発信すべき誇りでもあります。


なぜ今「第九」なのか。

第33回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会
  ▲第33回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会

国内の「第九」といえば年末恒例のものがあまりにも有名です。一説には、年末の「第九」のことの起こりは、昭和18年、東京音楽学校(東京芸術大学音楽部)の奏楽堂で行われた出陣学徒壮行の音楽会といわれています。

太平洋戦争の状況が悪化する中、法文系学生で満20歳に達した者へも徴兵令がくだったのです。彼らは入営期限を間近に控えた12月の初旬、繰り上げ卒業式の音楽会で「第九」の4楽章を演奏したといわれています。

やがて太平洋戦争も終わり、出征した者のうち多くが戦死し、生きて帰ってきた者達で奏楽堂の別れに際に演奏した「第九」を再び、ということになりました。つまり「暮れの第九」の出発は戦場に散った若き音楽学徒への鎮魂歌(レクイエム)だったのです。

その後日本経済の復興とともにオーケストラ団員の越年資金を得るために商売としてかたい「第九」が演奏されるようになり、しだいにそれが定着していったと思われます。

さて、「鳴門の第九」はといえば周知のとおり、鳴門市の板東俘虜収容所で演奏された捕虜達による演奏会が、アジア初演の「第九」シンフォニーというのが定説となっています。そこから我が鳴門市では演奏された6月1日を「第九」の日と定め、6月の第一日曜日に演奏会を開催しているのです。

では、なぜ当時他の収容所と違い、板東収容所で、ドイツ兵捕虜と地元民をまき込んだ極めてまれな交流が始まったのでしょうか。

当時の収容所所長松江大佐は、明治維新の敗軍会津の出身でした。彼の口癖は「武士の情け」であったといいます。敗者や弱者への人並みなずれた人道的共感が、捕虜達への接し方にも表れていました。単に哀れみや同情ではなく「祖国のために堂々と精一杯戦った」勇士への礼節をつくし、自らの信念を貫いたといえます。温和で包容力に富んだ人柄だったと、彼を知る人は口を揃えて賞賛しています。捕虜を人間として信頼し、心服させた管理方針は今日から見ても、民主的かつ人道的と評価されています。

また地元民には「ドイツさん、ドイツさん」といって、家族のように親しむ風潮が広がっていたといいます。幸い、この板東は四国霊場の一番札所でもありました。古くから接待や善根宿の風習は、人々の気持ちに知らず知らずのうちに思いやりが生き続け、異国の兵士達を受け入れることに抵抗感は少なかったと思われます。また松江所長の方針を素直に吸い取れる土壌でもあったようです。

これらの事からわかるようにベートーヴェンがシラーの詩を借りて、人間愛を描きたかったように、「なると第九」は鳴門市が生んだ固有の財産であり、地球上から戦火が絶えることのない今、国境を越えて、世界へ発信する『平和へのシンフォニー』でもあるのです。


「第九」への熱い願を込めた宣言文

宣   言   文

全国の「第九」を愛する皆さん!

私たちは長い間、それぞれの市や町でその歴史や文化に根ざし、「第九」を歌ってきました。今や、全国での「第九」の演奏は毎年200回を超え、世界に誇るわが国最大の文化イベントになっています。

我が国における「第九」のルーツは、1918年(大正7年)徳島県の鳴門市におけるドイツ人捕虜による演奏にあります。

現在、鳴門市の誇る財産となっている「第九」は、市民の英知と熱意で復活され、その後全国の「第九」合唱団との交流によりさらに発展し、1989年(平成元年)には『全日本「第九を歌う会」連合会』が組織され、その活動は日毎に高まりをみせております。

私たちが心から愛する「第九」には、高い音楽性の中に平和、友情、人類愛が歌われ、苦難に満ちた現代国際社会の中にあって、夢と希望を持って今を生きようとする人々に贈られたF.シラーからの励ましであり、人間賛歌であります。

21世紀という新しい時代を迎え、私たち連合会は、この限りなく素晴らしいベートーヴェンの「第九」を歌う輪がさらに大きく拡がることを願っています。

全国の「第九」を愛する皆さんのご参加を心からお待ちしています。そして、共に人類愛と国際平和の実現を力強くアピールしていきましょう。

   2001年6月3日


第一次世界大戦から始まった鳴門市とドイツとの交流

1914年(大正3)年に起きた第一次世界大戦。我が国は日英同盟の関係からドイツに宣戦布告をし、ドイツ兵約5,000人が守る中国・青島を陥落させました。
 約4,700人のドイツ兵捕虜が日本に送られ、当初東京から熊本までの12ヶ所に収容されました。その後、収容所は6ヶ所に統合されることとなり、四国の松山(愛媛県)、丸亀(香川県)、徳島(徳島県)の3つの収容所は、新設された板東俘虜収容所(現徳島県鳴門市)にまとめられました。

1917(大正6)年、突然現れた新しい施設と、約1,000人の敵国ドイツ兵捕虜に地元民は驚かされました。
 しかし、もともと四国88ヶ所霊場の一番札所がある土地柄、「お接待」を重んずる風習があり、「ドイツさん」と親しく接するようになりました。

これにドイツ兵捕虜も応え、当時としては進んでいた、畜産や製パンなどの産業指導、スポーツ指導や芸術指導などを行ったほか、ドイツ兵捕虜が設計し、地元の大工とともに牧舎を建設したり、地元民の生活を便利にするため、橋を建設するなど戦時中とは思えないような交流が鳴門市では行われました。

板東俘虜収容所全景  板東俘虜収容所入口
  ▲板東俘虜収容所全景           ▲板東俘虜収容所入口


板東俘虜収容所所長 松江豊寿

「世界のどこに、バンドーのような収容所があったでしょうか。世界のどこに、マツエ大佐のような収容所所長がいたでしょうか。」板東のみならず、第二次世界大戦時のシベリアでも捕虜生活を送ったパウル・クライ氏の言葉です。

世界大戦時には、劣悪な住環境で過酷な労働を強いられる強制収容所が各地にあったなか、なぜ板東俘虜収容所の捕虜達はこれほど自由があったのか、なぜこれほど地元民と交流を図れ、「模範収容所」とも呼ばれていたのか、それは板東俘虜収容所所長松江豊寿の管理姿勢を抜きにしては語れません。

松江所長の父は明治維新時の賊軍、会津藩の出身であり、松江豊寿自身も朝敵の汚名を受け、苦しい生活を送っていました。そんな中、敗者の心情をその身で受け止めながら成長しました。
 人並みはずれた人道的共感、思いやりの心が生まれた彼は、ドイツ兵捕虜に対しても、「彼らも祖国のために戦ったのだから」と、捕虜の住環境の改善などについて、上官にねばり強く交渉し、「捕虜に甘い」と中央の警告や非難も受けながらも、その姿勢を崩すことなく、収容所が閉鎖されるまで信念をつらぬきとおしたのです。この真摯な姿勢に収容所職員も賛同し、高木副官をはじめとし、ドイツ兵捕虜の生活環境の改善に心血を注ぎました。

松江豊寿所長  松江所長とその家族
  ▲松江豊寿所長              ▲松江所長とその家族


模範収容所でのドイツ兵捕虜の様々な活動

印刷技術

板東収容所を知る上で欠かせないのが、所内新聞「ディ・バラッケ(Die Baracke)です。帰国の迫った時期を除き、毎週日曜日に、毎回ほぼ24ページを基本に約2年間発行されました。
 その内容は、ヨーロッパでの戦況や、所内外の行事・出来事の紹介、演劇や音楽の批評など様々あり、またこうした板東での印刷物の多くは謄写版印刷されており、なかには多色刷りの技術を用いたものもありました。この技術は、100年近くたった今でも色鮮やかに残るほどです。この技術を駆使して、「ディ・バラッケ」の挿絵ばかりでなくたくさんの本や美しいプログラムが作られ、今なお現存するものもあり県指定有形文化財(歴史資料)として大切に保存しています。

印刷所の様子  カラー刷りされた印刷物
  ▲印刷所の様子              ▲カラー刷りされた印刷物


商業活動

タアパオタオ(商店街)

中国・青島にあった中国人商店街にちなんで名付けられた商店街には、80ほどの手作りの小屋に、家具、仕立、靴、理髪、写真、製本、卵、清涼飲料、アイスクリームの販売、大工、楽器修理、金属加工、配管工事、さらには、音楽教授や詩作請負の店がありました。そのほか、印刷所、肉屋、パン屋、高級レストラン(水晶宮)などが収容所内にありました。

タアパオタオ(商店街)の様子  肉屋にできた行列
  ▲タアパオタオ(商店街)の様子      ▲肉屋にできた行列


ボウリング場

タアパオタオの右側に、ボウリング場と菓子店が並んでいます。ボウリング場は松山にあったものを移設したもので、朝7時半から夜9時まで営業し、かなりのお客が訪れたようです。また、収益の一部を「一人は万人のために、万人は一人のために」をモットーに捕虜が発足させた健康保険組合などに寄付されました。

ボーリング場の様子  現存するボーリングの球
  ▲ボーリング場の様子           ▲現存するボーリングの球


菓子店「ゲーバ」

ドイツ語の板東俘虜収容所(Ge(ゲー)fangenenlager Ba(バ)ndo)の略称からとったこの菓子店は、2年半で36,000kgの小麦粉と、13,000個の卵が使われたそうです。祝祭日などには、パウンドケーキなどを中国や日本に住むドイツ人に送り、喜ばれたようです。

菓子店の様子1  菓子店の様子2
  ▲菓子店の様子1             ▲菓子店の様子2


スポーツ活動

収容所が開設してまもなく松江所長をはじめ管理者側は地元の人々と交渉して、収容所(57,000㎡)の前に、最終的には34,000㎡もの土地を「菜園地及び運動場」として借り受けました。スポーツ好きの捕虜は早速スポーツ委員会を組織し、テニスコート、サッカー場、ホッケー・クリケット場などの施設を作り、時間指定での活動ではあったものの、様々な競技に精力的に取り組んだほか、鉄棒、鞍馬、組体操など珍しい競技もしていたことから、小中学校の体育教師や撫養中学校(現在の鳴門高校)の生徒が見学に訪れたほか、後には学校に招いて指導を受けていました。

テニスコート  ドイツ兵捕虜による組体操の様子
  ▲テニスコート              ▲ドイツ兵捕虜による組体操の様子


また、大麻山など近くの山に登ったり、2時間以上もかけて櫛木海岸まで12kmの道のりを遠出したほか、「足を洗うため」という名目で5月~10月の間に30回程度水泳を楽しんだようです。また、その際に地元民との交流も行われたため、地元の子ども達がドイツ語で簡単なあいさつができるようになったといわれています。

櫛木海岸での地元民とドイツ兵捕虜の様子
  ▲櫛木海岸での地元民とドイツ兵捕虜の様子


文化活動

美術工芸展覧会

1918年3月8日~19日までの12日間の長期にわたり、一番札所霊山寺の前にあった板東公会堂を主会場に、お寺の境内と建物も使って大規模な展覧会を開催しました。
 絵画部門では、油絵、水彩画、写真など220点を出品。工芸部門では、モデルシップなどのさまざまな模型、彫金、木彫り、楽器、玩具など250点ほどが並びました。
 芸術品のみならず軍楽隊の演奏をバックに、力試しや射的などの見せ物小屋や、珍しい食料品を並べた売店も開かれ、お祭りのようなにぎわいをみせ、12日間で延べ50,000人(内一般客44,500人)が訪れ、展示品はほぼ売り切れ、たくさんの追加注文がでたほどでした。

美術工芸展覧会一番札所霊山寺内の様子  霊山寺前での演奏会の様子
  ▲美術工芸展覧会一番札所霊山寺内の様子    ▲霊山寺前での演奏会の様子


音楽活動

1917年4月6日に徳島から捕虜が送られ、収容所が開かれた後、8日・9日に丸亀・松山から捕虜がそれぞれ送られて来たときに、仲間を「プロイセン行進曲」で出迎えるなど、捕虜達の音楽に対する想いには格別のものがありました。
 パウル・エンゲル率いるエンゲル・オーケストラ、ヘルマン・ハンゼンが指揮する徳島オーケストラなどのオーケストラや合唱団・吹奏楽団が活発な活動を行い、一週間に1回演奏会が開催され、収容されていた間に、100回以上の演奏会を開催し、300曲ほどの楽曲が演奏されました。

エンゲル・オーケストラ  徳島オーケストラと合唱団
  ▲エンゲル・オーケストラ        ▲徳島オーケストラと合唱団


1918年6月1日。「第九」アジア初演の日。

そして1918年6月1日。板東俘虜収容所内にて、ヘルマン・ハンゼン指揮の徳島オーケストラと合唱団がベートーヴェン「第九」交響曲をアジアで初めて全曲演奏しました。
 残念ながら、収容所内で演奏されたため地元民はその演奏を聴くことができなかったようですが、当時「音楽の殿様」と呼ばれ、戦前の西洋音楽のパトロンとして大きな役割を果たした徳川頼貞は後に彼らの演奏を聴き、大きな感銘を受けたと言われています。

戦時中にもかかわらず、“alle Menschen werden Brüder=すべての人々は兄弟になる”という世界平和や人類愛という普遍的なテーマを持つ「第九」が演奏されたこと。そしてドイツ兵捕虜と収容所職員・地元民が国境や人種を超えてこれを体現したことは、まさに異例でした。

アジア初演となった「第九」演奏会のパンフレット
  ▲アジア初演となった「第九」演奏会のパンフレット


第二次世界大戦開戦

まさに模範収容所と呼ぶに相応しい板東俘虜収容所も第一次世界大戦終戦後の1920年4月1日に閉鎖を迎えました。こうした収容所の閉鎖・捕虜の帰国に際しては、たくさんの地元民が別れを惜しみました。こうして収容所跡には兵舎と、収容所で亡くなったドイツ兵捕虜を弔うための慰霊碑だけが残されました。
 残された慰霊碑を地元の青年団が掃除を行っていましたが、1939年に第二次世界大戦が開戦し、この「第九」アジア初演に代表される板東俘虜収容所を舞台とした友愛精神に基づく日独交流も人々の記憶から遠ざかってしまいました。

収容所閉鎖のイラスト
  ▲収容所閉鎖のイラスト


一人の市民が見つけた鳴門とドイツの友好の絆

第二次世界大戦も終わり、海外で生活していた人たちが引き揚げてき、収容所跡地は、一時そうした人たちの仮の住まいとして利用されるようになりました。
 その内の一人に高橋春枝さんという一人の女性がいました。春枝さんは、生活に必要な薪を取るために収容所跡地の裏山を散策しているとたまたま、雑草の影に、横文字で刻まれている碑に気がつきました。周りの雑草を刈り取り、水で洗うとドイツ人の名前が書かれており、初めて第一次世界大戦時の捕虜として鳴門にきていたドイツ兵捕虜を弔う慰霊碑であることを知りました。春枝さんには朝鮮の日本人墓地にある先祖代々の墓を放置して帰国した苦い経験があったことから捕虜となり故郷に帰ることなく異国で最後を迎えた者達の悔しさは他人事とは思えず、その日から春枝さんは、ドイツ兵捕虜慰霊碑の墓守として定期的に清掃して香華を供え続けたのでした。

高橋春枝さん
  ▲高橋春枝さん


交流の復活

1948年には夫である敏治さんもシベリアでの拘留から帰国し、春枝さんとともに、また地域の人々の協力も得ながら、ドイツ兵慰霊碑の墓守活動を続けました。
 この活動が1960年10月に地元紙を中心に取り上げられ、この出来事に感激した当時のドイツ大使と神戸総領事が鳴門市を訪れ、40年の時を経て鳴門とドイツの交流の復活がなされました。
 その後、元捕虜からの手紙や、ドイツからの感謝の募金や寄せ書きが多くよせられるようになり、1963年には慰霊碑の前で慰霊祭を開催し、翌年1964年には、高橋春枝さんにドイツ功労勲章が授与されました。
 こうした出来事が日本そしてドイツで話題となり、特に板東俘虜収容所の捕虜達やその家族からは寄附金や資料の提供が相次ぎ、1972年には、鳴門市の日独交流の拠点にと鳴門市ドイツ館(旧館)が建設され、以降20年その役割を果たしました。
 また、忘れてはならないのは、1974年4月の鳴門市とドイツ・リューネブルク市との間で結ばれた姉妹都市盟約が結ばれたことです。以降両都市の間ではほぼ1年おきに市民を中心とした「親善使節団」が行き来し続けています。

旧ドイツ館   リュ市との姉妹都市盟約締結
  ▲旧ドイツ館              ▲リュ市との姉妹都市盟約締結


鳴門市民による第1回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会の開催

1982年、鳴門市の文化の殿堂として落成した鳴門市文化会館を記念して、市民を中心に結成した『鳴門市「第九」を歌う会』377人による大合唱が行われ、1918年の「第九」アジア初演から70年近くを経て鳴門市で平和のシンフォニーが奏でられました。
 この演奏会にリューネブルク市長をはじめとする親善使節団が鑑賞に訪れた他、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身常任指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン氏から激励と祝福のメッセージが届きました。

第1回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会
  ▲第1回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会


新ドイツ館の建設

1993年、展示内容・設備の充実を図るため、鳴門市ドイツ館(新館)を建設しました。これを記念して「ドイチェス・フェストinなると」というイベントを開催し、メインとして、ドイツ館前において野外の「第九」演奏会となる第13回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会を開催しました。ちょうどこの日、リューネブルク市との姉妹都市締結20周年で来鳴していた、リューネブルク市長をはじめとする20人の使節団員も急遽出演する文字通り国境を越えた歓喜の大合唱となり、1,500人を超える聴衆が集まりました。

ドイツ館前で開催した第13回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会
  ▲ドイツ館前で開催した第13回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会


「なると第九」が世界へ

1998年には小澤征爾氏指揮の「第九」演奏会や、アジア初演時を再現するため、オーケストラ・合唱団・ソリストを男性のみで編成し、開催した「甦る第九演奏会」。
 2000年には小林研一郎氏が、2006年には飯森範親氏が、2008年には西本智実氏が、それぞれ鳴門の「第九」演奏会で指揮を振りました。
 このように素晴らしい演奏会が多数鳴門市で開かれましたが、忘れてはいけないのが、アジア初演への敬意を表してドイツ・リューネブルク市、ドイツ・ブラウンシュヴァイク市、また捕虜達が鳴門に送られてくるきっかけとなった中国・青島市で、鳴門市民を中心とした合唱団が現地で「第九」を合唱した「第九里帰り公演」です。

第27回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会  西本智実指揮
  ▲第27回ベートーヴェン「第九」交響曲演奏会 西本智実指揮


2001年の第1回第九里帰り公演は、ドイツ・リューネブルク市の市立劇場にて、鳴門市「第九」を歌う会67人、全日本「第九を歌う会」連合会25人、リューネブルク市合唱団20人で編成された合唱団が会場いっぱいに「歓喜の歌」を響かせたほか、「さくらさくら」「荒城の月」「祖谷の粉ひき唄」など、日本の歌も歌われました。会場にはドイツ兵捕虜の子孫52人も招待され、演奏会終了後には、お互いに交流を深めました。
 また、このときの指揮者ウルス・ミハエル・トイス氏と、ソプラノのアルムート・マリアンネ・クロル氏を翌年の鳴門での「第九」演奏会に招聘し、「第九」による日独交流を行いました。

日本の歌を披露する合唱団  捕虜の子孫との交流の様子
  ▲日本の歌を披露する合唱団        ▲捕虜の子孫との交流の様子


2003年の第2回「第九里帰り公演」は、ドイツ・ブラウンシュヴァイク市の大聖堂にて開催されました。この公演は、第1回の公演の大成功を聞きつけたブラウンシュヴァイク行政区より招聘を受け、実現したものです。
 演奏会前に開かれた交流会では、鳴門とドイツの交流の架け橋となったドイツ兵慰霊碑の清掃活動を続け、この年に亡くなられた高橋春枝さんに全員で黙祷を捧げました。その後、スライドショーによる当時の板東俘虜収容所の生活の様子を映写しました。懐かしい父・祖父の映像に、子孫達は皆見入っていました。また、このとき収容所内で行われた催しのチラシや写真を収めたアルバムなど、当時の様子が分かる貴重な資料が鳴門市に寄贈されました。

第2回「第九里帰り公演」の様子
  ▲第2回「第九里帰り公演」の様子


2008年の第3回「第九里帰り公演」は、アジア初演90周年を迎える年となり、中国・青島市で鳴門市・リューネブルク市・青島市の三都市合同の「第九」演奏会を開催しました。演奏会では中国の民謡の中でも、広く歌われている「茉莉花~モーリホア~」、ヘンデル作「水上の音楽」、日本の古謡「さくら」をそれぞれ演奏し、最後には、みんなで「第九」を大合唱しました。約1,400人の観客は皆スタンディング・オベーションであたたかな拍手を送っていました。

第3回「第九里帰り公演」の様子
  ▲第3回「第九里帰り公演」の様子


2018年(平成30年)に迎える「第九」アジア初演100周年記念

こうした、他に例のない素晴らしい史実を受け継いだ「なると第九」は、近年、国内外から多数の合唱団員が集まり、600人を超える大合唱団員とともに「第九」を奏で、全国的にも認知が進んできたほか、2007年・2012年の徳島県の国民文化祭において、あわ文化の四大モチーフの一つとしてベートーヴェン「第九」が位置づけられるなど、市のみならず県をあげて音楽文化としての「第九」は高まりを見せています。
 2013年(平成25年)12月には、戦時下にありながら、人類愛の祈りが込められた「第九」がアジアで初演されたこと、また、「第九」の精神がそのまま体現されたかのような活動が行われた板東俘虜収容所での活動やその精神を全国・世界に発信するために、『アジア初演「なると第九」ブランド化プロジェクト』が始動し、産学官民が一体となった推進協議会を立ち上げました。
 2018年(平成30年)に迎える「第九」アジア初演100周年。この絶好の機会に「なると第九」を、「第九」のすばらしさを鳴門市から発信します。

年々進化する「なると第九」演奏会(第33回演奏会の様子)
  ▲年々進化する「なると第九」演奏会(第33回演奏会の様子)

アジア初演「なると第九」ブランド化プロジェクトを応援しませんか?
 鳴門市では、「なると第九」ブランド化推進基金を設置し、寄付を募っています。「第九」がもつ人類友愛の精神・平和の祈りを「なると第九」に乗せて、全国・世界に発信して参ります。ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

「なると第九」ブランド化推進支援サイト

ページのトップへ戻る