鳴門市の遍路道と遍路寺について

四国遍路の起こり

弘法大師(774~835)に対する信仰は、大師の死後間もなく起こったと考えられますが、古代から中世にかけて、一般庶民の巡礼は交通上、生活上困難であったので、当時の巡礼は僧侶が多かったようです。

京畿地方の西国三十三所巡礼が平安中期にはじまり、その風習が四国にも及んだものであろうと推測されます。

江戸時代の延宝・天和(1673-1683)のころ、眞念という僧が十数回も四国巡礼を行い、貞享四年(1687)に「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)」を出版しました。また、高野山宝光院の僧である寂本も元禄二年(1689)に「四国遍礼霊場記」を刊行しました。この両書により、四国八十八箇所の霊場が一般庶民を含め広く世間に紹介され、現在まで続く四国遍路の基礎が確立されたといわれています。

  

鳴門市の遍路道

  

鳴門の遍路道と遍路寺について

1.撫養港

1.撫養港

 

撫養港(撫養町岡崎)は、阪神方面から淡路島の福良を経て阿波に入る玄関口として江戸時代初めに(撫養町木津から移転)整備されました。また、撫養港を起点に現在の三好市池田まで続く撫養街道(全長85km)が整備されました。江戸時代中期以降、撫養港から四国・鳴門に上陸し、撫養街道を通って一番札所に向かうお遍路さんも多く、岡崎・林崎地区は歓楽街として大いに賑わっていました。

  

昭和初期の岡崎桟橋 現在の桟橋(立ち入り禁止区域)
昭和初期の岡崎桟橋 現在の桟橋(立ち入り禁止区域)

 

昭和60(1985)年に鳴門海峡を結ぶ大鳴門橋の完成に伴い岡崎と福良を結ぶ阿淡汽船が廃線になり、淡路島との船の往来がなくなったことから、撫養港・撫養街道を経由して一番札所を目指すお遍路さんもいなくなりました。しかしながら現在も当時の町家建築がいくつか残っており、歴史的な街並みの面影を垣間見ることができます。

 

岡崎の町並み 林崎の町並み
岡崎の町並み 林崎の町並み
岡崎に残る地蔵堂と道標
岡崎に残る地蔵堂と道標

 

岡崎~林崎に入ると、街道沿いに妙見山(みょうけんさん)の登り口があります。標高61.6メートルの山頂には鳴門市内が一望できる絵馬堂と呼ばれる展望台があります。特に春の季節には県下随一の桜の名所として、たくさんの人で賑わいます。

  

妙見山登り口 絵馬堂からの眺め
妙見山登り口 絵馬堂からの眺め

 

街道を進むと撫養川に架かる文明橋にさしかかります。

撫養町林崎(橋の手前・東側)と斎田(橋の向こう側・西側)の間に流れる撫養川に初めて橋が架かったのは明治3年で、長さ55m・幅7mの木造長大橋でした。川東の豪商や庄屋等5名が建設費を調達して自前で建設したそうで、夜になると遊び客がこの橋を通って東側の歓楽街に向かいました。

  

初代文明橋 
初代文明橋

 

現在の文明橋は補強工事を伴ったことから当時の風情はなくなりましたが、かつてこの一帯は県内有数の河港で、文明開化の受け入れ口として繁栄したことから、文明橋の名前が付けられています。 

  

大正時代の文明橋 現在の文明橋
大正時代の文明橋 現在の文明橋

 

文明橋を過ぎると住宅街から中心市街地に差し掛かります。国道28号線を越えて、JR鳴門線の踏切を渡ると大道銀天街(商店街)に入ります。

  

JR踏切 大道銀天街
JR踏切 大道銀天街

 

大道銀天街を過ぎると車幅が狭まりますが、(撫養町)斎田~南浜~木津の間、住宅街が続きます。かつて撫養街道や古代南海道として人・物・技術・情報などが盛んに行き来する主要幹線として機能していましたが、近代交通網の整備に伴い、かつてほどの賑わいはなくなりました。しかしながら、過去の様々な往来のなかで育まれてきた歴史や文化の産物が現在にも残っています。

  

斎田の町並み 南浜の町並み
斎田の町並み 南浜の町並み
市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ) 藤原基房の歌碑(市杵島姫神社内)
市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ) 藤原基房の歌碑(市杵島姫神社内)

 

 

2.長谷寺(ちょうこくじ)

2.長谷寺(ちょうこくじ)

文明12(1480)年、寺の周辺一帯が海であった戦国時代に木津に住んでいた船戸左衛門尉次正が、信仰していた大和国の長谷寺(はせでら)に月参りをした際、長谷観音と同じ木でつくられた観音像をいただき、自分の屋敷に建てたのが寺の始まりです。境内には、かつてこの地が海であった頃、船を繋いだというイチョウの大木があります。慶長3(1598)年、蜂須賀家政により駅路寺(阿波藩独特の制度で真言宗8ヶ寺がこれの指定を受けた)に指定されました。藩内主要街道に沿った旅人たちの便宜を図るとともに、不審な旅人などを監視することもまた、駅路寺の重要な任務だったといわれており、経費として10石が付与されていました。

  

駅路寺についての石碑 イチョウの大木
駅路寺についての石碑 イチョウの大木

 

隣には明治元年の神仏分離令により分離された、金刀比羅神社があります。慶長6(1601)年、撫養城主益田大膳が造ったもので、寛永17(1640)年には、阿波藩主蜂須賀忠英が社殿を再興し、その後も歴代藩主による再興や社殿参詣等、厚い信仰の対象でした。 

  

鳥居と山門 本殿への道
鳥居と山門 本殿への道
 
本殿 
本殿 
本殿内 本殿からの眺め
本殿内 本殿からの眺め

 

撫養町木津~大津町大代~大麻町姫田と、遍路道は続きます。遍路道沿いの景観は徐々に田畑が広がる農村景観に変わっていきます。

大麻町姫田を過ぎると大谷に入ります。大麻町大谷は国の伝統的工芸品にも指定された大谷焼の里です。豊後の焼き物細工師・文右衛門が、ここ大谷村において、蟹ヶ谷の赤土で作ったのが大谷焼の起源と伝えられており、大物陶器とそれを焼く登り窯は有名で、日本一と評されています。

  

遍路道沿いにある大谷焼登窯
遍路道沿いにある大谷焼登窯

 

大麻町大谷を抜けると、遍路道に枝道ができます。この枝道は四国八十八カ所一番札所霊山寺の奥の院ともいわれる東林院(とうりんいん)や、国指定重要文化財に登録されている宇志比古神社(うしひこじんじゃ)を通る寄り道ルートになります。

 

 

3.東林院

東林院

天平5(733)年、行基が開基したと伝えられています。四国八十八カ所一番札所霊山寺の奥の院ともいわれ、阿波国八門首の一寺として三好・蜂須賀両家の帰依も深く、昔は末寺十六ヶ寺を数え広大なる伽藍でしたが、数度の火災、特に元禄年間(1700年頃)の大火でことごとく焼失してしまいました。古文書に、弘法大師が四国遍路開創時に東林院に滞在し農業奨励のために自ら鍬を取って米麦の種を蒔いたとの記録があり、種蒔大師という名でも知られています。

  

種蒔大師
種蒔大師

 

宇志比古神社は、県内に残る神社本殿の中で最も古く、慶長4(1599)年に建てられた時の棟札が残っています。この本殿の形は、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)と呼ばれ、建物の外面は、木の地肌をそのまま見せるように作られています。

  

宇志比古神社 社殿
随神門 拝殿
 
奥殿 
本殿(国指定重要文化財)

 

大谷から池谷に進むと、醤油醸造所(福寿醤油)や酒造所(本家松浦酒造)の白壁の蔵が目に入ります。その先には阿波神社(祭神は土御門天皇)があります。その後、池谷~萩原にかけて、再び農村景観が広がります。

  

遍路道沿いの醤油醸造所 遍路道沿いの酒造所
遍路道沿いの醤油醸造所 遍路道沿いの酒造所
阿波神社 池谷の農村風景
阿波神社 池谷の農村風景

 

大麻町萩原~板東と遍路道は続きます。萩原には第一番 前札所ともいわれる十輪寺があります。

 

 

4.十輪寺(談義所)

十輪寺(談義所)

 

飛鳥時代の白雉2(651)年、讃岐国三木郡出身の僧侶・智光律師によって建立されたとされています。智光は全国行脚の後、阿波国海部郡に草庵を結んでいましたが、ある夜、男児が「阿波北部の説法山に寺を建立し修行するように」と告げる夢を見ました。これをきっかけにその地に向かい修行を行うと、地中より「地蔵菩薩」と書かれた木板を掘り当て、それに地蔵菩薩を彫り、本尊として十輪寺を建立したと伝えられています。智光が白雉3年(652年)に没すると地蔵菩薩も消滅してしまいましたが、弘法大師が智光律師の伝説を聞き、地蔵菩薩を彫って再びこの地に安置したといわれています。その際に、僧侶を集めて説法を行い四国霊場の談義をしたとされることから、十輪寺は「談義所」と呼ばれるようになりました。

 

十輪寺(談義所)

 

大麻町萩原を抜けると板東です。第一番札所 霊山寺から一番近いJR板東駅の周辺は、地域住民によって「ばんどう門前通り」として環境整備がされています。JR板東駅から霊山寺までは、グリーンラインに沿って進むと到着します。

  

萩原の風景 萩原の道標(右が遍路道、矢印が徳島市方面)
萩原の風景 萩原の道標(右が遍路道、矢印が徳島市方面)
JR板東駅 テクてくまちの情報室(板東駅前)
JR板東駅 テクてくまちの情報室(板東駅前)
板東の町並み 板東の町並み
板東の町並み 板東の町並み
一番さんの縁どころ(お接待所) 霊山寺の石柱
一番さんの縁どころ(お接待所) 霊山寺の石柱

 

 

5.第一番札所 霊山寺(りょうぜんじ)

霊山寺(りょうぜんじ)

霊山寺は天平年間(729~48年)聖武天皇の勅願によって、行基が開基しました。弘仁6(815)年、弘法大師はこの地に留まって修法し、四国に88箇所の霊場を開くことを祈願しました。この間に釈迦如来の霊感を受け、この像を彫刻して本尊として堂宇を建立し、安置して天竺の霊山をわが国に移す意味で竺和山・霊山寺(じくわざん・りょうぜんじ)と名付けました。その後大師は四国の地に大日如来の胎蔵界曼荼羅の道場を求め、各国を発心(阿波国)修行(土佐国)菩提(伊予国)涅槃(讃岐国)の道場とし、88力寺をこの道場の中に開き、霊山寺を八十八カ所霊場第一番の札所に定めました。その後は寺運も大いに栄えましたが、天正年間(1573~93年)長曽我部軍の兵火にかかって多くの堂塔を焼失しました。やがて再建されましたが、明治24年に通夜堂から出火して本堂と多宝塔を残して焼失し、現在の建物はその後再建されたものです。本堂は昭和40年に解体修復されました。現在も四国霊場八十八箇所の第一番札所として、人々の信仰を集めています。

  

境内の様子 境内の様子
境内の様子 境内の様子
本堂 遍路衣装を着たマネキン
本堂 遍路衣装を着たマネキン
霊山寺本堂内 
霊山寺本堂内 

 

また、板東には霊山寺とともに県内一の大社 大麻比古神社があります。

  

大鳥居 参宮橋
大鳥居 参宮橋
楠 本殿
本殿

 

大麻比古神社は、阿波国一宮で、大麻比古神を主祭神とし、猿田彦大神を配祀しています。大麻比古神は天太玉命とされています。天太玉命の子孫の天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻楮の種を播殖するなどしてこの地を開拓、祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが始まりと伝えられています。後に、古くから大麻山に祀られていた猿田彦大神を合祀したとされています。地元民には古くから「おわさはん」と親しまれ、初詣や七五三など数々の行事には、沢山の参詣者で賑わいます。

 

また、周辺には第一次世界大戦における中国でのドイツとの戦争で捕虜となったドイツ兵(職業軍人ではなく多くは志願兵)を収容していた板東俘虜収容所跡地が、ドイツ村公園として整備されています。板東俘虜収容所では捕虜に対し人道的な処遇がなされるとともに、地元民との交流も盛んに行われ、製パンや印刷、建造物などの工業技術や、クラッシック音楽や器械体操、ボーリング場などの西洋文化が地元に還元されました。

  

ドイツ村公園(板東俘虜収容所跡地) 板東俘虜収容所
ドイツ村公園(板東俘虜収容所跡地) 板東俘虜収容所

 

当時の資料や、収容所閉鎖後に現在まで続く交流については、鳴門市ドイツ館にて展示・紹介しています。また、徳島で育った社会活動家 賀川 豊彦 氏の生涯と足跡を展示した鳴門市賀川豊彦記念館や、道の駅「第九の里」が隣接しています。

  

ドイツ館 賀川豊彦記念館
ドイツ館 賀川豊彦記念館

 

第一番札所 霊山寺 から 第二番札所 極楽寺までは1.3キロ程の道のりです。県道12号沿いに向かえば若干早く着きますが、一旦石柱まで戻り、右折し西進していくルートが昔ながらの撫養街道になりますので、おすすめしております。

  

 二股に分かれる道

しばらく進むと板東谷川にかかる板東橋が見えてきます。橋を渡り、県道225号の高架下をくぐり、さらにしばらく直進すると、二股に分かれる道に当たります。右側の道路が第二番札所 極楽寺に向かう道で、分かれ道すぐのところに石柱があります。(左側の道が道なりになっていますが、この道は第三番札 金泉寺方面に向かうことになりますので、ご注意ください。)

  

板東谷川に架かる板東橋 二股の道と石柱
板東谷川に架かる板東橋 二股の道と石柱

 

 

6.第二番札所 極楽寺

極楽寺

四国霊場第二番札所。行基の開基と伝えられています。弘法大師が順錫の際に、阿弥陀経を読誦し修法しました。その結願の日に阿弥陀如来がいずこからともなく現われ、大師におことばを賜りました。大師はそのお姿を忘れないうちにと、ただちに刃をとって、阿弥陀如来を刻みはじめ、十日程で完成させ当寺のご本尊として納めたといわれています。ところが、後に、御本尊の後光が鳴門の長原沖まで達し、漁業に支障を与えました。漁民たちは悩んだ末にこの光をさえぎろうと本堂の前に小山を築いたところ、それからは大漁となりました。「日照山(にっしょうざん)」の山号もそれにちなんでつけられたといわれています。境内には、大師お手植えといわれる大杉(長命杉)があり、霊場を訪れる大勢の人々から信仰を集める寺院です。

  

境内の様子 境内の様子
境内の様子 境内の様子
長命杉
長命杉
本堂 安産大師
本堂 安産大師
安産大師の前の地蔵 安産祈願のお守り
安産大師の前の地蔵 安産祈願のお守り

 

極楽寺から第三番札所 金泉寺(板野郡板野町)に向かうには、先程と同様に県道12号沿いに進む方法もありますが、山門を出てすぐ右側の小道から向かう道をおすすめしています。霊園を通過し、雑木林を越えると、舗装された道路に脇道から合流しますが、この地点に地蔵堂や道標があります。

  

小道の入り口 雑木林の小道
小道の入り口 雑木林の小道
地蔵堂と石の道標
地蔵堂と石の道標

 

ここから第三番札所 金泉寺までは2.5km程の距離です。道なりに500mほど進むと、板野町に入ります。

  

桧の遍路道 板野町へ
桧の遍路道 板野町へ

 

先述のとおり鳴門海峡を結ぶ大鳴門橋の完成に伴い岡崎と福良を結ぶ阿淡汽船が廃線になり、淡路島との船の往来がなくなったことから、撫養港・撫養街道を経由して一番札所を目指すお遍路さんもいなくなりました。現在はJR板東駅からお遍路をスタートする方法が一般的になっています。

しかしながらここで紹介しましたとおり、撫養港から霊山寺の間には、撫養街道をベースにした人々の往来によるお遍路関連文化資産が数多く存在しており、世界遺産登録推進協議会において世界文化遺産の登録を目指している『四国八十八箇所霊場と遍路道』も、撫養港を起点としております。

撫養港から霊山寺までの道のりは約12kmで、四国遍路の行程は約1,400kmに及びます。このページを見て少しでも興味を持っていただき、再び撫養街道にお遍路さんの姿を見つけることができれば幸いです。 

 

「四国八十八箇所霊場と遍路道」 世界遺産登録推進協議会ホームページ

 http://88sekaiisan.org/

 

四国遍路日本遺産協議会ホームページ

 https://www.seichijunrei-shikokuhenro.jp/council

 

撫養港への行き方

<鳴門市内から>

鳴門駅バス停より 徳島バス 北泊線 岡崎行 降車地:岡崎

 

お問い合わせ

文化交流推進課
TEL:088-684-1214