鳴門市ドイツ館館報
Ruhe(ルーエ やすらぎ)
発行者
鳴門市ドイツ館
〒779−0225
鳴門市大麻町桧字東山田55−2
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第9号

 「ヴォーティングさんの日記」の紹介:ドイツ兵俘虜関係者の寄贈品から

  昨年6月末のブラウンシュヴァイクでの「第2回ベートヴェン『第九』里帰り公演」の際にも、たくさんの元ドイツ兵俘虜関係者から貴重な遺品が寄せられました。これらは、本年10月のリューネブルクからの使節団来訪のおりにまとめて展示する予定ですが、それに先だってインゲマリー・フォン・ハレンさんからいただきました、お父さんルートヴィッヒ・ヴィーティングさんの「日記」の一部を紹介します。
 この「日記」は1970年のクリスマスに、ヴィーティングさんが娘のインゲマリーさんとお孫さんたちに送ったものです。今回いただいたのは、「第1次世界大戦-1914年夏と秋」と「日本 1914-1920年」の2つの章ですが、おそらくその前にドイツでの生活の記述があるのでしょう。
 前半は丸亀と板東での俘虜生活が中心ですが、これまでこの2つの収容所に関する日記類はほとんど発見されておりませんそれだけにここに描かれた具体的な叙述にはびっくりするようなことも多く、たいへん興味深い内容になっています。
 以下国際交流員のシュルツさんに、いくつかおもしろそうな箇所を選んでもらい、感想とコメントを加えていただきました。
 なお今回の「日記」の翻訳は、9月末頃刊行の「『青島戦ドイツ兵俘虜収容所』研究 第2号」に掲載の予定です。


「『父ルートヴィヒ・ヴィーティングの回想』からの抜き書」について
ローランド・シュルツ

 元俘虜のヴィーティングの回想からは、個人的に見た具体的な俘虜達の生活の様子や、感情や考え方をうかがうことができます。新聞『ディ・バラッケ』などの当時の資料には、俘虜達の生活を紹介する情報がたくさん書かれていますが、ヴィーティングの回想には、いままでまったく知られていなかった情報も数多く含まれています。
 ヴィーティングは、俘虜になってからまず丸亀収容所に送られました。狭い収容所内で、どういう風にして気分転換が図られたかも描かれています。
 「私たちの日本での最初の収容所は、四国の丸亀という小さい町にある寺院であった。約300人の海兵と海砲兵がここに収容された。・・・ここで私たちは、2年少々本堂と別棟と附属棟で、すし詰め状態の生活をした。短期間だが、気分転換になるここから出る唯一の機会は、高松に診療室のある歯医者に通う時だけだった。それで当然、大勢の俘虜がしょっちゅう歯痛を訴えることになった」
 ヴィーティングの書き方はユーモラスなので、楽しく読めます。また収容所の一日の食事メニューがどうだったかは、これまであまりよく分かりませんでしたが、次のように紹介されています。
「私たちの食事はひどくお粗末で、ヨーロッパ人の好みに合わず、量も少なかったのでありがたくなかった。初めのうちは収容所の炊事係は、ヨーロッパ人向きの食事を作ったことがなかったので、とりあえず日本人兵向けの量に合わせた。昼飯はご飯少しと醤油をかけた魚か、とても小型の缶詰の肉(おそらくは馬肉、私たちはそれを『ブリキのポニー』と呼んでいた)で、しかも醤油を添え、ジャガイモが1,2個付いていた。朝飯と晩飯は白パンとお茶だった。私たちの食事は、このようなものだった。しかし日本の管理者側も、こういう食事のままではいけないことに気づいて、私たちの供給係たちとともにドイツ風のメニュースケジュールを作った。もちろんこの新しいメニューの量もぎりぎりであったけれども、仕方がなかった。なぜなら、収容所の予算は守らなければなかったからである。」
 ドイツでは、馬肉を食べるのはタブーです。歴史を振り返ってみても、飢饉のとき以外は馬肉を食べません。ですからドイツ兵が日本の不思議なメニューを、不満を持ちながら食べたのは当然と言えましょう。
 丸亀収容所だけでなく、板東収容所時代についても面白いエピソードが書かれています。例えば、管理者側の俘虜の扱い方を示す文章などです。
 「ある日、俘虜の一人が日本側の衛兵とけんかになって、衛兵所もろとも衛兵をひっくり返してしまった。しかし俘虜は、ひどくは罰せられなかった。日本兵たちが我慢してくれたのも一つの理由だが、最大の理由は、その時は、衛兵は制帽もかぶっていなかったし、暑かったので、皆制
服を身に着けていなかったからである。したがって、彼らは正規の兵士ではなく、天皇の帝国バッジを汚すことにもならなかったのだ。一般にこうした出来事に対しては、日本人は思慮深いユーモアのセンスを持っていた」
 『ディ・バラッケ』を読みますと、日本の管理者側とドイツ兵俘虜がとても仲が良かったことが分かりますが、板東収容所時代の約50年後に書かれたヴィーティングの記述は、この良好な状況を改めて証明してくれます。
「俘虜たちと日本人の間の理解ある関係の柱は高木大尉だった。
高木大尉は、正確はよいが時々理解しにくい所もある、生粋の東アジア人だった。彼は私たちドイツ人から、とても上手な北方低地ドイツ語を学んでいた。そして何かを伝えたり叱責が必要になると、この小男は私たち俘虜より少しでも高く見せようとビール箱に乗って、しばしば「『皆さん!またまずいことが起きたぞ!』と語り始めた」。
しかし一番驚いたのは、板東時代の台風が来た時のエピソードでした。
 「台風の警報が出ると、収容所では特別に食料が支給され、衛兵達は引き揚げ、洪水が橋の上を流れるようにと、収容所への道の橋板が取り去られた。そして、騒ぎはきちんとやって来た。台風の荒天は数日間続くこともあり、戦場のような爪痕を残す。・・・
 こうした荒天の最中に、私は突然中耳炎にかかったが、日本の軍医は衛兵達と一緒に帰ってしまったので、治療をしてもらえなくて弱った。中耳炎はとても痛かったが、医者が収容所に戻ってきたときには、ひとりでにいくらかよくなっていた。医者が言うには、耳の中にできた潰瘍の膿が脳に入ったら、救いようがなかったからである」
 上の文章によると、日本の管理者側はドイツ兵を深く信頼し、台風の時には、衛兵たちの数も減らしたようです。このように板東収容所は、本当にユニークな収容所だったのです。
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「シュラークバル(Schlagball-ドイツ式野球)」の復元をめざして
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 耳慣れない言葉でしょうが、「シュラークバル」とは第一次対戦当時のドイツ兵収容所で行われていたスポーツの一つです。野球のような競技で、ランナーにボールをぶつけてアウトを取るなど違ったところもありますが、やはりバットでボールを打ち、ベースの代わりのポールを回って打席に戻ってくると点が入ります。最近ドイツでも見直され、北部の東フリージア諸島などで交流試合が行われています。
 ドイツ館では毎年10月に「ドイチェス・フェスト」を開いていますが、今年はその行事の一環として、「シュラークバル」の復元を計画しています。できれば、リューネブルクの使節団の方々にもご参加いただきたいと思っています。以下、この競技のルールの概要をお伝えしておきます。簡単なルールですので、奮ってご参加ください。
 

 
 
■試合時間 30分〜1時間
■人数 1チーム12人
■ボール 革製で直径7センチ以上、重さ80グラムほど。赤色がふつう。
■ばっと 太さ3センチ、長さ60センチから120センチの木製の棒
■打撃 決められた順番に打席に入り、自分でボールを投げ上げて片手か両手で打つ。
■走塁 打球がフィールド内に入ったら、打者は走者用ポールに向かって走る。ポールの所で止まってもよいし、そのままポールを回って打席に戻って来てもよい。走者はボールをぶつけられないように、ジグザグに走ってもかまわない。走者はポールのそばに立っているときは、アウトにならない。
■守備 12人は、打撃や走塁を妨げないかぎり、どこで守ってもよい。
■アウト 1.ホームラン・ゾーン以外で、フライをじかに捕ったとき(もちろん走塁ゾーンおよびホームラン・ゾーンの外側で捕ってもかまわない) 2.走者にボールをぶつけたとき。走者の近くの人にボールをパスしてもよいが、ボールをもって走ってはならない。 3.打球が、走塁ゾーンおよびホームラン・ゾーンの外に落ちたとき 4.ゴロが中間ポールの内側で、走塁ゾーンの外に出たとき 5.走者が、走塁ゾーンの外に出たとき等々
■交代 1.一人がアウトになったとき 2.前の守備側が交代に手間取っている間に、新しい守備側がゾーン内の相手の選手にボールをぶつけたとき
■得点 1.打者が、走塁ポールを回って打席に帰ってくると1点 2.ホームランは1点。ただし、走者が一人いる場合は2点。この他ルールには、「交代点(守備側が交代権を得る)」、「捕球点(守備側がじかにフライを捕る)」などもあるが、複雑なので今回は適用しないかもしれない。
 


 
 ほぼ以上が、主なルールです。ここには、打者の「空振り」が何回まで認められるのかとか、「走者用ポール」は2本あるが、ランナーはそれぞれに止まっていてもよいのかなど、はっきりしないところもあります。「空振り」は野球と同じように、3回でアウトにした方がよいかもしれません。
 なお正規のルールですと、打席から走者用ポールまでが60メートルもあります。女性と14歳以下の子どもの場合は、20メートル縮めてもよいことになっていますが、これをどう決めるかも問題です。これらの点については、体育の専門家の方にご協力いただき、無理のないように調整したいと思っています。
 目下領事館などを通じてお願いしておりますが、ルールブックばかりでなく、正規のボールやバットも手に入るとは限りません。場合によっては「代用品」で我慢しなければならなくなるかもしれませんが、その際はご容赦ください。
 

 
1.『徳島新報(Tokushima Anzeiger)』の「解読」終了

 すでにお伝えしましたとおり、2000年末から2003年3月にかけて、鳴門教育大学と鳴門市の間で共同プロジェクト「『板東俘虜収容所』研究」が取り組まれました。その最大の成果の一つは、これまで1号分しか入手できなかった『徳島新報』3巻の発見でした。そこには徳島収容所時代の67号分1,800ページあまりの新聞が、半年ごとにまとめられていたのです。
 問題は、こちらも板東の『バラッケ』と同じく手書きのガリ版刷りで、読みにくい古い筆記体で書かれていることです。この文字をいかにして現代文字化し、翻訳の下準備をするかが大きな課題でした。
 幸い「朝日新聞」がこのことを全国にご紹介くださったお陰で、ドイツ人5名を含む、40名からの方々がご協力くださることになりました。まだガリ版技術も稚拙で読みにくいうえ、このような字体をこなせる方には年輩の方が多かったため、皆さんたいへんなご苦労をなさったようです。心から、お礼を申し上げます。
 財政面でも出版事情にこぎつけるかが次の課題です。お志を活かすよう努力いたしますので、今後も変わらぬご協力をお願いいたします。
なお何人かの方から、一緒に仕事をした人の名前を教えて欲しいとの要望がありました。ご了承を得ずに申し訳ありませんが、お名前と大まかな住所だけを掲載させていただきます。ご容赦下さい。

《『徳島新報』解読 協力者一覧(順不動)》

濱吉繁子(兵庫県神戸市) 宮崎又郎(京都府京都市)
三上かーりん(福井県福井市) 太田嘉照(石川県小松市)
F.Sondermann(宮城県仙台市) 大河内(三重県津市)
福田暉(東京都中野区) 小泉和夫(東京都多摩市)
花井陽子(東京都大田区) 石井元(神奈川県横浜市)
W.Michel(福岡県福岡市) M.Burghardt(ドイツ、フレンスブルク市)
平澤和彦(長野県東部市) 川堀昭子(新潟県上越市)
松阪嘉治(大阪府泉南市) 北里資郎(東京都杉並区)
宮永三知子(山梨県敷島町) 山内一郎(千葉権柏市)
土橋緑(東京都北区) 生垣昌之(埼玉県さいたま市)
中西栄一郎(大阪府吹田市) P.Weiler(ドイツ、クライリング市)
加藤好光(神奈川県鎌倉市) 中村綾乃(東京都江東区)
松田祥悟(大阪府豊中市) 小島一良(高知県高知市)
新居玲児(愛知県江南市) 藤田操(神奈川県鎌倉市)
長谷川昭夫(東京都千代田区) 田中勝馬(埼玉県朝霞市)
B.Neumann(京都府京都市)
大阪国際大 代表 鎌野多美子(大阪府枚方市)
横浜ドイツ研究会 代表中島敏(神奈川県横浜市)
2.『小野市史 第三巻』の刊行

 本年3月に、兵庫県小野市の『市史 第3巻』が刊行されました。小野市は、元の北條町を中心とする加西市と隣接しておりますが、丁度漁師の境のあたりに「青木ヶ原俘虜収容所」がありました。第三章第六節は「青木ヶ原俘虜収容所と小野」と題され、姫路時代の様子や、青木ヶ原に移った経過、青木ヶ原での生活や活動の状況などが詳しく紹介されています。
 この収容所には約500名が収容されておりましたが、そのうち200名ほどがオーストリア・ハンガリー人で、しかもそのほとんどが巡洋艦カイゼリン=エリザベートの乗員だったといいます。それが高度の技術水準の支えになると同時に、複雑な民族構成とも絡んで紛争の原因ともなったなど、興味深い事実も紹介されています。
 われわれにとってありがたいのは、140ページほどの収容所に関する「別冊」が付けられていることです。板東の元俘虜の子息である、ディルク・ファン・デア・ラーンさんが集められた関連資料の「中間報告」的なものだそうですが、右から開くと、主として防衛研究所図書館所蔵の「陸軍省史料」から抜き出した「関連資料」、左から開くと「手記」と写真等がまとめられています。ことに「イエキッシュ氏資料」と「ケルステン日記」は、収容所生活の具体的様相をうかがえ参考になります。
 
 

 
「鳴門市・リューネブルク市姉妹都市盟 
約30周年記念事業」について

副館長 中野正司
 鳴門市とドイツ・リューネブルク市は、1974(昭和49)年に姉妹都市盟約を結びました。板東俘虜収容所でのドイツ兵俘虜と地元の人々との交流が一つの機縁となったのはもちろんですが、両市がよく似た人口や産業・観光などをもっていたことも、その大きな理由でした。その後両市の間では、親善使節団が隔年に訪問しあうなど交流の輪が広がり、結びつきはいっそう深まりを増していきます。
 今年は、両市が姉妹都市となって30周年を迎える記念すべき年です。このため鳴門市では、様々な記念事業を実施することにまりました。すでに6月13日には、プロ野球の名球会・OBクラブなどのメンバーと地元選抜チームによる、「ドリーム・ベースボール」が盛大に開かれました。さらにこれからは、30周年記念式典の開催や記念誌の発行も計画されています。
 ドイツ館でもこうした記念事業の一環として、10月10日に「第11回ドイチェス・フェストinなると」を予定しています。このイベントには、リューネブルク市の親善使節団もご参加いただけるようです。まだ企画段階ですが、大正時代ドイツ兵俘虜が行っただけで、そのまま幻となってしまったドイツ式の野球「シュラークバル」を再現し、日本で初めての子どもたちの大会を開きたいと思っています。
 そのほか親子が1チームになって、ペーパークラフトでリューネブルク市の街並みをつくる「クライン(小さな)・リューネブルクまちづくり大会」、誰もが参加できるおなじみの「ふだん着の第九」、ドイツ兵俘虜達の活動や交流をテーマにした創作ダンス、姉妹都市リューネブルク市の美術協会「パレッテ会」会員による絵画作品展なども予定しています。さらにクラッシックコンサート、国際文化交流の集い、地元桧に伝わる伝統芸能の獅子舞、写真撮影会、ぬいぐるみショー、地域ミニ芸能祭、ドイツ物産展を開催するなど、多少の変更はあると思いますが、盛りだくさんの計画を練っています。皆様のお越しをお待ちしております。
 またこの「ドイチェス・フェストinなると」の一環として、10月1日から31日まで、ドイツ館2階企画展示室で、ドイツ兵俘虜の子孫の方々などから寄贈された品々を中心とした特別企画展も開催します。ここには珍しい史料も含まれており、俘虜たちの活動についての新しい事実が明らかになるかもしれません。こちらにもご期待ください。
ドイツワインまつり
藤田 徹

 5月3日、4日の2日間、ドイツ館1階大ホールに於いて「ドイツワインまつり」と名付け、ドイツワインを広めるべく試飲、販売を行った。約100種類ものワインの試飲が無料でできるというのは、おそらく県内では初めての試みであったと思われる。両日とも天候にはあまり恵まれなかったが、館内には人の波が途切れることがなく、大勢のお客様がお目当てのワインの前で立ち止まっては試飲され、大いににぎわった。
 同時に、ジャズコンサートも開かれ、地元ミュージシャン達(ピアノ、ベース)による演奏で、美味しいワインと素晴らしい演奏に酔いしれていた。帰って行かれるお客様から、「次回はいつですか?」との質問が何度も聞かれたことは嬉しい限りである。
 ドイツ館前の広場でも、パン、ソーセージ、ビールなどの販売を行ったが、こちらも用意したソーセージやパンが早々に売れきれとなり、嬉しい悲鳴を上げた。両日で実に3000人からの人々が来られたことになり、初の「ドイツワインまつり」は、大盛況のうちに終わることができた。この成果を生かし、今後ともよりたくさんの方に喜んでもらえるよう工夫を重ねて行きたい。
日独協会連合総会参加者の来館

館長  田村 一郎
日独協会は全国54ヶ所にあるそうですが、その本年度の総会が3月の半ばに神戸で開かれました。私がこの催しを知りましたのは、3年ほど前にヴュルツブルクでお世話になりました、「シーボルト
 

 
博物館のクライン・ラングナーさんを通してです。この方をはじめ全国の独日協会などの26人ものドイツ人が来られ、四国のツアーにもご参加くださるとのことでした。
 神戸日独協会の黒崎さんからもご連絡があり、お出でになった21日には、夕方の慌ただしい中、慰霊碑に献花の後ドイツ橋を回りました。ドイツ館の展示も熱心にご覧になり、たくさんの貴重な指摘もしてくださいました。私も同じバスで徳島までお供し、クライン・ラングナーさんと旧交を暖めることができ、有意義な一日でした。

 本誌の「第7号」で、川島町の長野さんから、自宅にドイツ兵ゆかりのサツキがあるとのご連絡をいただいたことをお伝えしました。その後、気にはなりながら忙しさにまぎれお訪ねできないでおりましたところ、問い合わせお手紙をいただきました。
 先月半ばの雨の中でしたが、館長と学駅のそばのお宅に参りました。元気なサツキを拝見しお話をうかがっておりますうちに、この木を根分けしてくださった東谷さんの奥さんが、石井町に元気でおられることを知りました。長野さんが電話してくださったところ、帰りに寄ってほしいとのことで、こちらもお訪ねすることにまりました。
 東谷さんは雨の中、サツキの古木が花をつけている門前でお待ちくださいました。時間がなく傘をさしながらの立ち話でしたが、ドイツ兵が自分で育てた2本のサツキの入った鉢を持ってきて、警察官だった義父にくれたこと、義父はそのうちの1本を旧ドイツ館に寄贈し、義父に代わって自分たち夫婦が、年に何度かサツキの手入れに旧ドイツ館に通ったことなどを、懐かしそうに話してくださいました。
 翌日、館長が旧ドイツ館入口のサツキの写真を撮ってきました。お送りしましたところ、まもなくお嫁さんの車でお出でになり、まちがいなくこの木だとうなずいてくださいました。思いがけなく、当事者からゆかりのサツキの確認をしていただくことができ、たいへん感激しました。こうした機会を与えてくださった、長野さん、東谷さんにあらためてお礼を申し上げますとともに、東谷さんがくり返しおっしゃっておられたように、適当な時期に新ドイツ館に移し、大事に育てたいと思っております。ありがとうございました。
7月31日(土)
バンドー芸術祭「佐藤郁帆 ピアノリサイタル」
:ピアノと陶芸のコラボレーション
8月8日〜9月20日(月)
「日本に残った元俘虜のその後- バルト、ボーナー、マイスナーの場合」(仮題)
8月12日(木)13日(金)
ドイツワイン・ビールまつり:試飲を楽しめます。
8月22日(日)
バンドー芸術祭「ビーチウォーカー」
:フランクフルトの劇団グリーンソースによる児童劇
8月29日(日)
バンドー芸術祭
「ドイツ留学生によるクラシック・トリオ・コンサート」:粟田美佐ほか
9月26日(日)
「西奥 章 ピアノリサイタル」:ローマを中心に活躍中の新進ピアニスト
10月9日(土)
鳴門市・リューネブルク市姉妹都市盟約締結30周年記念式典
10月10日(日)
第11回「ドイチェス・フェスト in なると」
   

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