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鳴門市ドイツ館館報
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| 全国誌「『青島戦ドイツ兵俘虜収容所』研究」創刊 ようやく、懸案の「全国誌」が刊行されました。丸亀の方々のご努力で、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」、別名「ヴァーチャル俘虜研究会」のホームページは積極的に活用され、海外を含めたくさんの情報が寄せられています。そうした中で、以前から予定しておりました「研究誌」は影が薄れがちでしたが、やはり活字による情報交換も必要との声も強く、再度呼びかけ、8名の方からのご寄稿を得ました。 前半の第1部は「研究等」とし、論文風の原稿をまとめました。後半の第2部は、「情報等」としエッセー風のものが中心です。
第1部冒頭の高橋氏は、最近集中的に手がけておられるドイツの「外務省文書」をもとに、アメリカの外交官ウェルズの収容所調査報告書を、執筆者の意図がよりはっきり読み取れるドイツ文書から翻訳紹介されています。俘虜の不満など、各収容所のなまなましい実情の一端を知ることができます。田村のは、板東にあるいわゆる「ドイツ兵の墓」と全国の合同慰霊碑を手がかりに、各地の墓碑の実情などを紹介したものです。 校條(めんじょう)氏は、全国でもっともたくさんの俘虜が企業に協力した名古屋の実情をふまえ、ことに企業側の記録なども活かして、新しい視点からの収容所分析を行っています。森氏は、愛媛県の教育委員会総会での前川松山収容所長の講演という、珍しい資料を紹介しておられます。 第2部ではまず小阪氏が、「ヴァーチャル俘虜研究会」のホームページ誕生の裏話や、丸亀での収容所研究の動きなどを伝えています。瀬戸氏のは、青島への船旅などを通して日独将兵の思いを追体験された記録です。堤氏は、収容所外での「第九」日本初演が、久留米の女学校での演奏だったことを紹介しておられます。 最後に星氏は、母が元ドイツ兵と結ばれながら再婚せざるを得なかった人との出会いと、そこからかもし出される人と人とのかかわりのあやを、味わい深く描いています。 それぞれに興味深い文章で、上々のスタートといえましょう。次号は本年9月の刊行を予定しております。6月末くらいをめどに、より幅広い方々がご寄稿くださることを期待しています。なお今回は校條さんに、この「研究誌」をめぐる名古屋での状況などを書いていただきました。 広がる「研究誌」の反響
校條 善夫(名古屋日独協会)
「『青島戦ドイツ兵俘虜収容所』研究」に掲載した私の論文の紹介は、朝日新聞名古屋版(平成15年 12月20日)夕刊の社会面と、中日新聞(平成16年1月4日)朝刊のコラム欄「中日春秋」とに掲載されました。朝日では主に、俘虜たちが名古屋地方の企業に彼らの技術力で貢献した面が扱われています。内容の点では若干ポイントにずれがありますが、知人が記事を読んで「収容所があったことなど初めて知った」とか、「敷島パンの話は初めて」と伝えてくるなど、情報メディアの威力を感じました。逆にいえばそれほど収容所の話は、歴史の中に埋もれていたということです。 中日の方は、人間味のある暖かさや親密感を呼び覚ましてくれたことに焦点を合わせ、現代の国際社会が憎悪や対立で騒然としている中で、俘虜収容所でのヒューマンな人間関係の意義を高く評価しております。 朝日と中日の掲載以降、FAXや電話が相次ぎました。いずれも今後検証しなければならない宿題ばかりですが、その反響の一端をご紹介いたします。
そのほかある社会学者から、名古屋地方の産業は当時既に日本独自の技術で自立しており、敷島パンを除けば外国からの技術サポートを受ける必要はなかったのでは、との疑問も出されています。しかし事実を発掘してゆくと、従来の文献にはない出来事の多さに驚きます。考古学の発掘ではありませんが、未知の事実がだんだん明るみに出てくるのは楽しいことです。その反面検証には時間を要し、慎重な調査をしなければなりません。これらの疑問にどうお答えするかなど、今後も期待と緊張が続きそうです。 「松山大学市民フォーラム 2003−捕虜の町・国際都市マツヤマ」に参加して 昨年暮に、松山市の松山大学でロシア兵捕虜収容所をめぐるフォーラムが開かれました。日露戦争開戦の1904(明治37)年に松山収容所が開設されていますので、今年はちょうど100年になります。この会に参加された徳島大学の井戸慶治さんにお願いし、その概要を紹介していただきました。 「松山大学市民フォーラム 2003」報告
井戸 慶治(ドイツ館史料研究会)
去る12月13、14日、松山大学にて市民フォーラム「捕虜の町・国際都市松山―ロシア兵捕虜収容所開設100年を前にして」が開催され、日露戦争時のロシア兵捕虜に関する報告などがおこなわれた。捕虜は7万を越え、松山には2163名が収容された。彼らは市内を比較的自由に散歩し、道後温泉に入り、はては遊郭に登楼する者までいたという。13日は午前中にも講演があったが、筆者が聴いたのは午後のパネル・ディスカッションからで、それ以降の内容を略述する。まず、大阪大学ロシア語講師ポダルコ氏による「ロシアにおけるマツヤマのイメージ」では、ロシア人ははじめ四国の存在さえ知らなかったが、収容所によって松山が有名になったこと、その後ソ連の捕虜観、対日政策の影響で忘れられたこと、近年になって「ロシアの司馬遼太郎」ピークリが日露戦争をめぐる小説を書き、松山を再び知らしめたことなどが報告された。続いて東京ロシア語学院講師藻利佳彦氏の「マツヤマ収容所とノヴゴロド州メドヴェージ村」では、日露戦争時の日本兵捕虜が、極東から遠く離れたメドヴェージ村に収容され、うち23名が死亡し、墓石も残されていることが、氏の現地調査にもとづいて報告された。 3番目に作家青山淳平氏が、「松山ロシア人墓地とフェザーストン日本人捕虜鎮魂碑」をもとに、第2次大戦時ニュージーランドの日本兵捕虜収容所で暴動によりかなりの犠牲者が出たこと、彼らのことはあまり知られず、小さな鎮魂碑しか設置を許されなかったことなどが報告された。 後半では、第1に名城大学助教授稲葉千晴氏の「松山収容所におけるポーランド人捕虜」で、捕虜の10分の1を占めたポーランド人について報告がなされた。18世紀の分割以来その最大の部分がロシア領となっていたポーランドからも兵が駆り出されたが、彼らは戦意を持たず、むしろ積極 的に投降の道を選んだこと、その裏には在欧の明石大佐とポーランド政治団体との交渉があったこと、ポーランド系捕虜は宗教上の違いもあって他のロシア兵捕虜と仲が悪かったことなどがその概略である。第2の報告は、同志社大学講師檜山真一氏による「松山の元ロシア兵俘虜が書いた小説」で、文士肌のジャーナリストで捕虜となったクプチンスキーが宣誓解放後に書いた、捕虜と日本人女性との恋愛などを描いた小説が紹介された。 第3の報告は、京都大学人間・環境学研究科の院生平岩貴比古氏による「名古屋と松山の収容所比較」で、名古屋の捕虜の遊歩区域が市域の大半に及んでいたこと、日本ハリストス正教会との交流があったこと、松山と同様、将校の比率が高かったことなどが骨子であった。その後討論もおこなわれたが、全体として多角的な視点からの充実した企画であった。関係者の他、学生、一般市民合わせて2〜300人が参加していた。 翌日には発表者の1人で松山出身の藻利氏の案内で、ロシア人墓地参りがおこなわれた。城北の地にある松山大学から、さらに徒歩で15分ほど北上した丘の中腹にその墓地はあった。全部で90基あまり、4列の方形に整然と並んでいる。前の3列は兵卒のもので、高さ1メートルほどの墓碑が、50センチ四方の正方形の土台の上に立てられている。最後列には、ひとまわり大きい下士官の墓碑が並ぶ。それぞれの墓碑には日本語で捕虜の氏名と死亡年月日が刻まれ、傍らの板にはロシア文字の名と、信仰していた宗教(ほとんどがロシア正教で、他にローマ・カトリックとユダヤ教が若干)を示す記号が書かれている。その左側には、旅順港内で破壊された戦艦ペレスウェートの艦長ボイスマン大佐のひときわ大きな墓がある。 これらの墓碑群の右側に、松山で死亡した唯一の第1次大戦時のドイツ兵捕虜である、アルトゥール・ラウエンシュタインの墓碑も確認できた。 リューネブルク市青少年図書週間に参加して 楠 茂宣(鳴門市立図書館副館長)
昨年11月、ドイツ・リューネブルク市で第25回青少年図書週間が開かれた。今回は25回という節目でもあり、リュ市の各姉妹都市から作家が招待され、自身の作品を紹介するという企画であった。 鳴門市からは私が参加することとなったのであるが、今回は趣向を凝らし、同行したすばらしい仲間とともに、映像と音楽を使った朗読公演を行った。 発表したのは、自作絵本「もぐらのサンディ」「もぐらのサンディ2」(ともに岩崎書店刊)と童話「あたたかい木」(新美南吉童話賞入賞作品)の3作品である。今回は、鳴門市黒崎小学校教諭の野村篤氏がコンピュータグラフィックス化した絵本の画面を液晶プロジェクターでスクリーンに投影しながら、ジャズピアニストの田中貴志氏の演奏に合 わせ、四国放送アナウンサーの金山明子さんがドイツ語で朗読するといった新しい表現方法を試みた。日本を発つにあたりいささかハプニングもあったが、4回の公演は、子どもたちを中心に毎回約80人が鑑賞し、その模様は、リュ市のホームページや、地元の新聞に大きく紹介された。 また、夜に行われた田中貴志氏のソロコンサートもたいへん好評であった。 これらは、私たちにとって、ストーリー・絵・音楽といった芸術には国境はないということをあらためて実感することができた貴重な体験であった。 忘れられない想い出となった今回の公演の成功は、亀井市長はじめ、翻訳や連絡等で大変お世話になったシュルツ・ローランド氏や藤田徹氏、そしてドイツ館の皆様、また、リュ市のアイゼルト氏、独日友好協会のデューリッチ氏、図書館副館長のボッケルマンさん、通訳をしてくださったアーレント順子さんと、多くの方々の温かいご配慮やサポートのおかげである。 今も目を閉じるとリュ市の市庁舎や教会、石畳の大通りそして関係者の方や子どもたちの笑顔が甦る。 今回の訪問の記念にリュ市の全ての小学校と幼稚園さらには図書館など計50ヵ所に寄贈した私の絵本を今日も誰かが読んでくれているかもしれない。 リュ市は本当に美しくそして優しい街であった。 |
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「感想文」 「俘虜たちの悲しみと楽しみ」
間島 由佳(香川大学附属高松小学校5年)
私は、『父の過去を旅して』という本を読んで、人を尊敬することや知らない人にもやさしくする気持ちを学びました。 この本の内容は、第一次世界大戦で日本に負けたドイツ人が、日本につれてこられ、日本の「板東ドイツ俘虜収容所」での生活を書いた文や、この本の作者の安宅温さんの父ヘルトレさんの過去をさぐった物語です。 この物語に出てくる松江所長とは、「板東ドイツ俘虜収容所」の所長です。松江所長は、俘虜にやさしくしていたので俘虜たちに人気があり、みんなの希望をかなえてくれる所長です。もし、私が所長だったら、俘虜にやさしくし、希望もかなえてあげようと思いますが、松江所長には勝てないと思います。 反対に私がもし俘虜だったら、自分の家がこいしいけど地元の人たちと教えあったり、豊かな自然と遊んだりしたいと思います。 今、その「板東ドイツ俘虜収容所」の近くに「鳴門市ドイツ館」が建っており、俘虜たちの生活や音楽活動がよく分かる資料館です。 では、なぜ「鳴門市ドイツ館」ができたのでしょうか。ここは、ドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を記念して作られました。そのほか、国際交流を深めていこうとする資料がかざられています。 俘虜たちが作った物でいまも残っているのは、ドイツ橋という橋です。この橋は、石で作った橋です。そのほか、ボウリングの球や松江所長へのビールジョッキがあります。その中で松江所長へあげたビールジョッキは、大谷焼で作りました。それは、日本の人から教わったことを生かして作ったものです。これこそ交流です。 私は、松江所長のようにひとりひとりの積極的な生き方が、よい社会をつくり、社会がよくなれば、そこにいる自分は生きやすくなると思います。私がこれから夢見ている世界は、平和で一人からみんなへと交流を深めていける世界です。 |
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ドイツ館の近況 昨年暮、7年間にわたってドイツ館の美化に努めてこられた丸岡さんに続いて、松本さんも退職されました。松本さんから、開館当時からのドイツ館への思いのこもった「日記」の数節が寄せられましたので、ご紹介いたします。
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今回は、全国「研究誌」の刊行を中心にしました。高松の小学校5年生からのりっぱな「感想」と、退職された松本さんの思いを寄せていただきました。下降気味の入館者回復の、一つのバネにしたいと思います。ありがとうございました。
(田村)
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