鳴門市ドイツ館館報
Ruhe(ルーエ やすらぎ)
発行者
鳴門市ドイツ館
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FAX(088)689-0909
第7号

   

  ドイツ兵俘虜関係者からの「新資料」の寄贈−

  「ブラウンシュヴァイク公演」のもう一つの成果

 一昨年2月の、姉妹都市リュ−ネブルクでの「第1回ベ−ト−ヴェン『第九』里帰り公演」に続いて、本年6月末に同じニ−ダ−ザクセン州のブラウンシュヴァイクで、「第2回」の公演が実現した。

 もちろんわが国で『第九』が初めて演奏されたのは、「板東俘虜収容所」においてである。その収容所でのドイツ兵の生活や活動を記念して建てられた「ドイツ館」にとって、『第九』をとおしてふるさとドイツにまで交流の輪が広がることは意味深いことである。それに加えこのたび、前回に引続いて招待されたドイツ兵俘虜の関係者から、80年以上も大事にされてきた数多くの資料が寄贈された。

 今回はまず、この「寄贈新資料」の紹介をしたい。「ブラウンシュヴァイク公演」については、実行委員長としてご苦労なさった浅野さんと、ドイツとの連絡係・通訳などを務めたシュルツさんにご寄稿いただいた。またドイツでも上映され好評だった、「板東収容所」紹介DVDの作成者山内さんにも寄稿をお願いした。

1)「新寄贈資料」の概要

 今回の寄贈資料でことに注目されるのは、2冊の刊行物である。一つはエリカ・ヴルコップさん(オスカ−ル・マイ一年志願兵の娘)からの、『板東におけるわれわれの体操』という本である。もう一つはウルズラ・ウルリッヒさん(アルフォンス・レッチェルト軍曹の娘)からの、『俘虜生活からのまじめで明るい詩』という詩集である。いずれも、これまでコピ−しかなかったのでありがたい。

 たくさんの当時の写真も寄せられたが、ことに2冊のアルバムが貴重である。ユッタ・ギュンシュマンさん(エドムント・ギュンシュマン二等海砲兵の息子の妻)は、このアルバムをリュ−ネブルクにもおもち下さり、コピ−をお送りいただいた。今回は、その原本をご寄贈くださったわけである。板東の音楽活動や徳島の教会などのほか、南洋や青島での珍しい写真もふくまれている。もう1冊はルイ−ゼ・ヴァルネッケ=ハルトゥングさんおよびエンネ・ヘセさん(ヨハン・ディ−トリッヒ・クロップ伍長の娘)からのもので、大分を中心に習志野での写真を集めたものである。

 そのほか日本側発行の「渡航許可証」と「軍隊手帳」の現物とか、「MAK(膠州海軍俘虜関係者から「新資料」が寄贈された砲兵大隊)」の文字がはっきり記されている水平帽のリボン、当時使われていた木製のハンガ−、中国のものらしい墨まである。

 また習志野以前に収容所のあった浅草本願寺で行われた、「日独戦没者合同慰霊祭」の際に撒かれた「散華」の色コピ−なども目につく。たくさんのコピ−の中では、ヨハネス・ヴィ−ゼ上等火工兵曹の兄弟・姉妹がまとめられた、父の参戦から帰国までの「日記」もある。それぞれの父への思いを含め、じっくり味わってみたい資料である。

 今回の寄贈者や参加者の中には、先の『徳島新報』を発見した調査旅行の際にお世話になった方もおられた。「前回はまだ未練があり渡せなかったが、散逸しないためにも鳴門市に寄贈し大事にしてもらおう」との声が多かったという。ドイツ館を中心に大事に保存させていただき、研究や展示資料としても活用していきたい。

 最近耳にしたが、ドイツ国内でインタ−ネットで交信しておられるバンド−ゆかりのグル−プもあるそうである。こうした人々をふくめさらに交流の輪を拡げ、新たな資料の発見にも努めたいと考えている。いっそうのご協力をお願いするとともに、今回のご厚意に重ねてお礼を申し上げたい。

2)「ブラウンシュヴァイク公演」

  「第2回『第九』里帰り公演」を終えて

         「里帰り公演」実行委員長  浅野 司郎

夢のような第2回里帰り公演「第九」演奏会

 ドイツ北部のブラウンシュヴァイク市の、830年前に建てられた由緒ある大聖堂ドーム教会が、今回の第九演奏会の舞台である。オーケストラは、古い歴史と格調の高さを誇る州立交響楽団。私たちをサポートしてくれる合唱団は、州立劇場所属のオペラ合唱団。私たちにとっては、願ってもない最高の舞台と演奏者である。ドイツでの演奏会の通例の開演時間は、午後8時である。半時間もはやく開演するとので、観客が集まってくれるか心配だと劇場の責任者から聞かされていた。しかし会場は開演前から行列ができ、日本の合唱団への期待を肌で感じた。はじめに、日本の有名な歌曲「この道」「荒城の月」などを大井美弥子さんの指揮で披露。続いてドイツの合唱団と「さくらさくら」、琴の伴奏は遠藤綾子さん。州立合唱団のメンズケス氏は「野バラ」を指揮され、伴奏のパイプオルガンを吉成くみさんが担当した。さらに遠藤さんによる現代感覚豊かな箏曲が披露されると、大きな拍手が鳴り止まなかった。期待に応えられた喜びに、胸が熱くなった。

 いよいよ、本番のベートーヴェンの交響曲「第九番」である。指揮者ジョナス・アルバー氏は、州立交響楽団の常任指揮者。その若々しい指揮に魅了された。オーケストラの音色は、実に繊細で美しく会場いっぱいに響き、残響音が長く尾を引いて静かに高い天井に消えていく。それはまさに感動である。第4楽章、バリトンの力強いソロに始まり、合唱団の出番である。27分あまりの合唱が、あっという間に終わった。無我夢中である。ブラボーの声と大きな拍手で、演奏が終わったのだとほっとすると同時に、涙が自然に出てきた。すばらしい「第九」の仲間と、それを支えてくれた州立交響楽団・合唱団にいくら感謝してもたりない。夢のような気持ちで、いつまでも続く拍手を聴いていた。

懐かしさと温かさがいっぱいの子孫との交流会

 演奏会の当日、昼食をかねてホテルの広間でドイツ兵士の子孫の方々と交流会を持った。子孫の方々との出会いは、鳴門市の姉妹都市リューネブルク市での第1回の里帰り公演以来であり、2年4ヶ月ぶりである。古い教会に琴の音が響くほとんどが第1回に出席した方で、合唱団員と馴染みの人も多く、あちこちで話がはずみ再会を喜び合った。

 今回は鳴門市ドイツ館の国際交流員シュルツさんが、85年前の板東俘虜収容所でのドイツ兵士の生活の様子や、地元の人たちとの交流の様子を映像をもとに講演された。また、日本で「第九」を初演した、ヘルマン・ハンゼンを研究しているプースト博士の講演もあった。熱心にDVDの映像を見入り、講演に聞き入っている子孫の方々の姿を見て、よいプログラムで意義深い交流会であったと実感した。

 特に感動的だったのは、子孫の方が父親や祖父の大切な形見を持参し、鳴門市に寄贈されたことである。私と同席のご夫妻は、父親の形見として当時の板東収容所で発行された謄写版ずりの体操に関する書物を持参し、「自分も年をとってきた。自分が亡くなったとき大切な父の形見がどうなるか心配。鳴門市にプレゼントすれば、大切に保管してくれていつまでも残すことができる」と話してくれた。そのほか写真や、収容所生活を綴った詩集など、貴重な資料が寄贈された。改めてドイツ兵士の子孫の方々の熱い思いを感じ、これまでドイツ館に贈られた一つ一つの資料の重みを感じた交流会であった。

「ブラウンシュヴァイク公演」に参加して

              国際交流員 ロ−ランド・シュルツ

 好評でした、2001年2月のリュ−ネブルクでの「第1回『第九』里帰り公演」をうけて、去る6月26日ニ−ダ−ザクセン州のブラウンシュヴァイクで、その「第2回公演」が行われました。ブラウンヴァイク市は人口20万ほどの町で、そこの古い歴史を持つド−ム教会が会場でした。サ−ズの影響もあり日本からの合唱団は80名ほどでしたが、この町の国立劇場の合唱団40名の共演もあり、約800人の聴衆を感動させました。

 今回も前回と同様、ドイツ兵俘虜の子孫の方々35名が招待されました。演奏会当日の昼に、「メ−ベンピク・ホテル」で子孫の方々との交流会が開かれました。ホ−ルはきれいに飾られた14の丸テ−ブルが並べられ、子孫の方々と日本からの合唱団員が交じりあって座り、それぞれに言葉の話せる人を入れる配慮もしました。

 会に先立ち、5月に長年ドイツ兵の墓を守ってこられた高橋春枝さんが亡くなりましたので、全員で黙とうを捧げました。亀井市長

の挨拶の後、記念品として「板東収容所」を紹介するドイツ語版のDVDと、この収容所を題材とした中村彰彦『二つの山河』のドイツ語訳が贈られました。DVDは会場の大スクリ−ンで上映され、好評でした。
俘虜関係者との交流会

 DVDの内容をふまえて、私が板東収容所に関する最近の研究成果について話をしました。続いてフレンスブルクのディ−タ・プーストさんが、日本で『第九』を初演した、徳島オ−ケストラの指揮者ヘルマン・ハンゼンについて講演をしました。ハンゼンはデンマ−ク国境のフレンスブルクの出身ですが、プーストさんはこれまではっきりしなかったこの指揮者の生涯を、市役所や教会の資料などをもとに明らかにしてくれました。そのハンゼンに、子どもなどの係累がいなかったのは残念でした。

 その後子孫の皆さんから、父や祖父についての思い出話などが語られました。最後に何人かの方から市長に収容所時代の貴重な資料が送られ、意義深い交流会は終わりました。

 演奏会については省きますが、そのあとコンサ−ト関係者との交流会もあり、子孫の方も参加して公演の成功を喜ぶとともに、独日の交流のいっそうの深化を誓い合いました。  

3)4ケ国語の「板東俘容所」紹介DVD作りを担当して

                   山内 茂雄   

 3年前鳴門教育大の高橋先生から、教育大と鳴門市の「板東収容所」共同研究の、映像作りに協力してもらえないかとのお電話をいただいた。定年後、趣味としてビデオと取り組んではきましたが、専門的な知識もそう深いわけではないので悩みましたが、多少ともお役に立てればとお引受けしました。

 隔月のプロジェクトの研究会にも出席し、研究報告や話し合いをうかがい、これらを映像でどう表現するかを考えあぐねているうちに、最後の3年目になってしまいました。そうした中で手始めに、共同研究の基盤をなす「板東収容所」での俘虜の生活や活動を、ドイツ館の展示資料をもとに映像化することを思いつきました。DVDの「基礎編」にまとめたのがそれですが、映像にかかるライトをどうするかなど結構手間がかかりました。けれど最近のビデオカメラの良さもあり、鮮明な画像を得ることができました。

 次に編集ですが、ここでも最近はビデオカメラとパソコンなどを連動することで、かなり複雑な操作をこなすことができます。映像を順に並べ、一つ一つにナレ−ションをつけてゆくのが基本です。しかし今回のように、日本語・ドイツ語・中国語できあがった4カ国語のDVD・英語というそれぞれに構造もスピ−ドも異なる言葉を、映像にマッチさせるのは大変な作業でした。幸いドイツや中国の方を含め、ナレ−ションの担当者などが熱心に協力してくださり、次々と難問をクリアすることができました。これにタイトルや説明文を打ち込み、最後に著作権にかからないBGMをつけて仕上げたときには、すでに6ヵ月がたっていました。

 丁度この2003年1月に、ビデオに代わる新しい記録方式としてのDVDの規格統一ができました。こちらの方が数段すぐれた映像や音声が得られることを知り、プロジェクトの人たちとも相談し、新しい機材も購入して、DVDとして仕上げることにしました。

 このDVDの「ドイツ語版」はブラウンシュヴァイク公演にもお伴をし、ドイツの関係者に配られたうえ、俘虜の子孫の方々との交流会で上映されて好評だったとうかがっています。長年の肩の荷が下りたようでほっとするとともに、今回の作業をとおして、これまであまり接することのなかった大学関係者や、外国の方々とも親しく交わることができ喜んでおります。これからもさらに新しい技術を身につけ、お役に立っていきたいと思っております。ご活用ください。



「愛の墓守」高橋春枝さん逝く

 1917年4月に、徳島・松山・丸亀の約1,000名のドイツ兵俘虜を集めて開かれた「板東俘虜収容所」は、3年後の1920年春にその役割を終えて閉所しました。その後収容所の施設は陸軍の演習地として使われ、周辺の中学生や女学生の訓練の場としても活用されました。

 太平洋戦争が終わると、この施設は外地からの引揚者の住宅に転用されました。高橋敏治さん・春枝さん夫妻も、3人の子供とともにこの地に住むようになりました。元プロ野球選手でタレントの板東英二さんも、その当時の仲間の一人でした。ある日薪拾いをしていた春枝さんは、やぶに埋もれた墓石に気づきました。そこに刻まれた文字はドイツ語のようで、以後春枝さんは夫や近くの人々とも協力して、草を刈り花を供え続けました。またある一家が参道に植えた桜の木は、今でもみごとな花を咲かせています。

春枝さんの思い出の資料に見入る人々 春枝さんの善行を伝え聞いた当時のハース・ドイツ大使はこの地を訪れ、帰国後もそれをドイツに広めました。たまたま元俘虜からの手紙とも重なり、これがその後のこの地での日独交流の復活の重要ないしずえともなりました。ドイツ政府は、1964(昭和39)
年に春枝さんに功労勲章を贈り、その功績を称えました。

 春枝さんは、去る5月10日に89才で世を去られました。その半世紀にも及ぶ地道な国際交流への献身に想いをいたし、心からご冥福をお祈りいたします。

 ドイツ館では「愛の墓守」としての春枝さんの生涯を振り返るため、8月に「回顧展」を開きました。会場の「感想」を拝見しますと、たくさんの方々が春枝さんの地道な功績への感動と感謝の気持を残されております。

 なお写真などほとんどの展示物は、ご子息の敏夫さんにご提供いただきました。あらためてお礼を申し上げますとともに、敏夫さんが展示に添えて書かれた「母の思い出」を転載させていただきます。

母の思い出

高橋 敏夫   


 母春枝についてまず思い出すのは、朝鮮から日本に引き揚げて来たときのことです。私の家は地主として安定した生活をしていましたが、終戦とともに事態は一変しました。父敏治は戦争に行ったまま生死不明で、祖母は心配のあまり脳卒中で亡くなりました。そうした中で母は祖父と祖母の遺骨を抱え、次男の手を引き、三男を背負った10歳の私を励ましながら釜山にたどり着き、引揚げ船で帰国しました。

 母は日本に戻ってからも不安の連続で、3年後に父がソ連から帰るまでは、食べ盛りの3人の子どもを抱え実家で苦労を続けました。そうした中にあっても母は笑顔を絶やさず、心やさしく周りの人々をいたわり続けました。

 母の優れた点は、苦しい中にあってもいつも物事への生き生きした関心を失わなかったことです。ことに着想が豊かで、いろいろと人々の喜ぶような前向きのアイデアを思いつきました。そうした母だったからこそ、草に埋もれたドイツ兵の慰霊碑に気づき、亡くった人に思いをはせながらそれを守りとおすことができたのでしょう。

 母の発想の豊かさは貧しい新生荘時代にも生かされました。新生荘は、南から元管理棟の「さくら寮」、元5号棟の「梅花寮」、以下「若竹寮」「白菊寮」「松葉寮」と、5棟が並んでおりました。多い時には150家族もおり、小学生だけでも200人くらいはいま
した。夕方になると、内廊下に何十もの七輪(こんろ)を並べて夕食の仕度です。夕食といっても米などはなく、とうもろこしの粉のおかゆがほとんどでした。母は総寮長をしていた夫を助け、生活に困っている人の相談にのったり、婦人会で内職を請け負って仕事を
分け合ったりしました。ことに子どもの教育に熱心で、13年間も民生委員を務めたのもそのためです。しばしば開かれた運動会や海水浴のお世話も、母たちの企画でした。

 ことに隣人だった、タレントの板東英二さんのお母さんの久江さんとはうまがあいました。この人はいつも米軍から支給された軍服を着ていたので、子どもたちは「女の兵隊さん」と呼んでいました。母と同様行方の知れない夫を残し、4人の子どもを連れて満州から
引揚げてきた人です。二人が協力し新生荘の活性化に努めていた姿は、いまでも目に浮かびます。母の志を受け継ぎ、今後も慰霊碑を大事にしていきたいと思っています。 



◆◆◆◆◆◆◆◆ 研究情報 ◆◆◆◆◆◆◆◆

◆「研究・情報誌」の発刊

 丸亀を拠点とする「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の「メール会報」は、小阪、赤垣両氏のご努力もあり好評である。すでに8月末で1,300人以上、1日11人もの人の訪問があるそうである。

 これはこれで重要なのだろうが、以前から青島戦争の際の国内収容所についての、「研究・情報誌」を作ってはとの話が出ていた。やや遅くなったが、松山の森孝明さん、名古屋の校條(めんじょう)善夫さん、丸亀の小阪清行さんなどから原稿をいただき、あと数本は集まりそうなので、10月中には刊行したい。

 なお申し訳ないが、印刷・簡易製本・発送などのための費用として、ご投稿の方には1口1,000円の協力金をお願いしている。今回は投稿なさらないでもご協力いただける方は、カンパをお願いしたい。ご送金は、手数料の安い郵便小為替が便利と思う。

◆なお上の「メール会報」の013号に、『金沢大学独文学研究会「独文研究会室報」第18号』(2002年3月31日)に載った、志村恵さんの「日独戦争と青島鹵獲書籍」という論文が紹介された。日本軍は日独戦争後、青島でドイツ公官庁と膠州図書館が所蔵していた書籍26,000冊ほどを鹵獲した。この多数のドイツ書はその後、日本全国の32ヵ所の国の機関や中・高等教育機関に配分されている。

 こうした経過は、一昨年愛媛大学の森孝明さんの「愛媛日独協会会報」(2001年7月)の紹介で知ったが、志村さんの論文からはその全国での流れを追うことができ、参考になる。

 詳細は次号に譲るが、ドイツ館の田村がこの9月に2週間ほどドイツに調査旅行に行ってきた。さしてまとまった成果はなかったが、フライブルクの「軍事資料館(Militararchiv)」でケーリッヒ所長にお会いできたのは収穫だった。おそらく事前に大阪の総領事館から協力依頼を出してもらったせいだろうか、資料を調べていると職員が所長室に行くようにと言ってきた。いきなり「ドイツ館とは何か」と質問されたが、持っていったドイツ語版のパンフレットや「館報」をもとに説明させてもらった。ことに、『バラッケ』のドイツ語版は好評だった。3名の関係職員も呼ばれ、所長のお説教の場になってしまったが、帰ってすぐ丁重な礼状が届き、今後も交流を深めたいのでよろしくと書かれてあった。ありがたいことである。

 またフィラテリストで、日本各地の第1次大戦当時の収容所資料も集めておられる、ボッフムのイエキュシュさんをお訪ねしたのも成果だった。今回は時間がなく板東中心の資料しか拝見できなかったが、おそらく他の収容所についても未知の資料がありそうである。すでに参られた方も多いようだが、機会があったら是非お訪ねいただきたい。まだお元気だが、なにぶんにも82才の高齢である。そう余裕はないように思う。



◆◆◆◆◆◆◆◆ 来訪者やお手紙から ◆◆◆◆◆◆◆◆

 8月初めだと思いますが、川島町の長野徳治さんという方からお手紙をいただきました。それによりますと、現在石井町にあります東谷さん宅と長野さん宅に、ドイツ兵が育てていたサツキが残っているそうで、ドイツ俘虜が手撒きしたという説明の碑がついた写真が添えられておりました。

 お手紙ですと、このサツキの一株がドイツ館にも寄贈されたそうです。確かに館の左手にかなりのサツキがあるのですが、申し訳ありませんが関係者にうかがいましても、どれと特定することができません。こうした貴重なものが残されていることを、みなさんにもお知らせするとともに、もう一度株分けしていただき、説明文もつけて大切に育てたいと思っております。

ドイツ兵ゆかりのサツキ

 また埼玉県の志木高校の先生から、丁重な「見学記」がメールで送られて参りましたのでご紹介しておきます。

ドイツ館見学記

 8/3ドイツ館を見学することができました。俘虜の扱いも含めて負の側面の多い日本の戦争に関する歴史の中で、心あたたまるドイツの方との交流と、文化の形成は、ほほえましい光景とか言うだけでなく、戦争や平和について考えさせられるものがありました。

 展示を細かくみさせていただきますと、ドイツ兵俘虜達が作成した図書や写真、日用品等を初めとした当時の貴重な資料が数多く保存されていて、しかも映像、模型、ジオラマ、ロボットなどを使って、誰もが楽しめるような工夫がなされていました。

 私は特に、キャンパスに、俘虜たちと地域の人々との交流が映し出されるものが気に入りました。見ていて、本当に当時の様子が想像できます。今高校の日本史を担当しているのですが、高校生たちにもぜひ見せたいと思いました。

 埼玉県立志木高等学校教諭      


◆◆◆◆◆◆◆◆前号以降の主な行事◆◆◆◆◆◆◆◆
《色の女王》

播磨 順子  

 8月27日バンドー芸術祭、ハンブルクの劇団メール公演「色の女王」を観劇しました。

 私にとってそれは、とても新鮮で印象の強いものでした。舞台はいたってシンプルで、白い大きな布をキャンバスに、光の絵筆によって青・赤・黄・灰色の表情を、二人の出演者が感情豊かに表現し、舞台ならではの色の世界を素直に楽しむことができました。

 折しも夜空には、火星大接近の天体ショーが見られ、人々の宇宙への思いも高まり、みんなが瞳をこらしました。

 今日の公演を見ていた子供達の瞳も、同じように輝いていました。優れた芸術は、豊かな感受性を養い育ててくれます。子供達にとって、夏休み最後の嬉しいプレゼントになったことでしょう。

色の女王

《阿波踊り体験》

 今年もお盆にドイツ館の大ホ−ルで、「太閤連」による阿波踊りの実演と指導が行われました。徳島に踊り見物に来られた方が多かったせいか熱心に見入っておられ、ことにチビッコの踊りには大喝采でした。車イスの方をふくめほとんどの人が踊りの輪に加わってくださり、ご苦労なさった「連」の方々も楽しそうでした。

写真:地元ワインのすばらしさを紹介するワイン協会関係者



◆◆◆◆◆◆◆◆ 最近の行事と今後の予定 ◆◆◆◆◆◆◆◆

9月7日(日)−10月26日(日)

 

 「奥山実秋絵画展−北ドイツの風景画とドイツの印刷物の歴史」

 長年の現地生活で身につけたベルリン・ブランデンブルク州など北ドイツの魅力を、建物や風景を中心に 繊細なタッチと渋い色彩で写しとっています。19世紀からの見事な装丁の本や、珍しい切手も展示されており楽しめます。
 
10月26日(日)
 「第10回 ドイチェス・フェストinなると」
案内チラシ:第10回ドイチェス・ゲストinなると ドイツのミュンヘン・フィルハーモニーオーケストラの主席ファゴット奏者等の、室内楽トリオ「ファチェロ」によるクラシック・コンサートのほか、「国際文化交流のつどい」や、ふだん着の第九コンサート、物産展など多彩な内容の催しが予定されています。
 
10月13日(月・祝)
 「セタンター心にしみるエディコンサート」
 
12月1日(月)−1月31日(土)
 鳴門教育大学・鳴門市「『板東収容所』共同研究」展
 
12月13日(土)
 「第7回 鳴門マルディグラ」 出演:石川二三夫&小出斉(FROM 東京)
    THE CHOIR ALL STARS (FROM 高松)他

    クラシック、R&B、ゴスペル、ハーモニカ演奏など


編集後記

 今回は、ブラウンシュヴァイクでの「第2回『第九』里帰り公演」の関連事項を中心にまとめました。好評だった児童劇「色の女王」につきましては、播磨順子さんに感想を寄せていただきました。

 最近「東海・南海沖地震」への危惧が高まっていますが、本館でも6月末に鳴門市消防署にご指導をお願いし、「防災訓練」を行いました。たくさんの方々が出入りする場所だけに、火災報知機や消火器の操作など職員全員で確認できてよかったと思っています。来年1月初めには、「ドイツ語版 第3号」を刊行する予定です。

(田村)


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