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鳴門市ドイツ館館報
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特集 「鳴門教育大学・鳴門市共同研究: 『板東俘虜収容所』」 2000年末から、鳴門教育大学と鳴門市が取り組んできた「板東俘虜収容所」(以下随時「板東収容所」と省略)の共同研究は、本年3月で終了した。そこでの成果は「事業報告書 地域社会における外来文化の受容とその展開ー『板東俘虜収容所』を中心として」にまとめられているが、今回はその主な内容を紹介してみたい。 はじめに
鳴門教育大学・鳴門市共同学術研究事業 研究代表 高橋 啓 鳴門教育大学と鳴門市の共同学術研究プロジェクトがスタートしたのは、2000年11月のことであった。これは、同年7月に両者の間で結ばれた「相互協力関係の充実強化に関する意向書」をふまえたもので、いわば官学共同の地域に根ざした文化事業として注目される。 プロジェクトの立ち上げに際して、溝上泰学長からは、鳴門の地から全国や世界に向かって発信できる「これぞ、鳴門!」という文化情報をまとめ上げてもらいたいとの要請があった。こうして、研究プロジェクトは、「地域社会における外来文化の受容とその展開ー『板東俘虜収容所』を中心としてー」をテーマとして、鳴門教育大学・鳴門市(ドイツ館史料研究会を含む)双方から13名の研究者が集まり、3ヵ年計画で始まった。 私たちは、研究を進めるにあたって、「板東俘虜収容所」を鳴門という地域社会を歴史的に特徴づけるかけがえのない貴重な文化遺産ととらえ、その研究成果を市民の学習活動や学校教育の中で活かすとともに、個性的な文化情報としてその成果を全国に発信していくことを確認した。こうして、本プロジェクトは、@「板東収容所」に関する資料の調査・収集及び基礎資料の翻刻を行う、A調査・研究の成果を公刊するとともに、その映像化(ビデオ作成)を進める、B「板東収容所」に関する文化フォーラムを開催するなどの課題を掲げて、活動を開始した。 本プロジェクトに対して、鳴門教育大学からは「教育改善推進費」として年間100万円の予算が3年間計上され、また鳴門市からも同額の予算を2年間にわたって頂戴することができた。こうした、ご配慮によって、念願のドイツへの資料調査や国内各地の関連資料の調査・収集を実施し、多くの成果を挙げることができた。また、研究成果の映像化は、鳴門市在住の山内茂雄氏のご協力によって、最新のIT機器を使ったDVD作品に仕上げることができた。 プロジェクトでは、おおむね隔月毎に研究会を開催し、研究の中間報告と討議を積み重ねてきたが、その過程で共同研究の主題は、@板東収容所におけるドイツ兵俘虜の基礎教養、A同時代資料に見るドイツ兵俘虜の生活、Bドイツ兵俘虜収容所の『いま』に焦点化されていった。スタッフとそれぞれの研究内容は、次ページをご参照願いたい。 最後になったが、本プロジェクトを物心両面にわたってご支援くださった鳴門市および鳴門教育大学に対して、深甚の敬意を表したい。
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第1章 板東収容所におけるドイツ兵俘虜の基礎教養 各地の収容所の盛んな学習活動については、川上三郎(以下敬称略)が「第2節」で、板東・徳島・松山などを例に紹介している。その実情を端的に示すのは、『バラッケ』に載っている次の似島収容所の記述である。 「収容所の住人のうち73%が、俘虜生活中になんらかの授業を受けていた。…ここでは47の講座があり、それぞれの受講者は3名から52名までだった。生徒の数が特に多かったのは、ドイツ語、日本語、数学、機械工学、化学、憲法、地学、簿記である。それ以外にも中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、歴史、算数、速記、習字、タイピングなどが人気があり、その他にも建設業、機械製造などの特別講座も開かれた」(『バラッケ 第3巻』第22号) ここからもうかがえるように、ドイツ兵は実に多様な学習を重ねている。もちろん講師は、同じ仲間のドイツ兵である。実務的なものも目につくが、教養を深めるための講座も多い。しかもそれらの参加者が全体の4分の3にも及ぶというのは、「俘虜生活を無駄にすごすまい」という意欲がいかに強かったかをうかがわせる。しかし、意欲だけでこうした活動が進むはずもない。その支えとなったのがドイツ兵の基礎教養、つまり彼らが学んできたドイツの教育体制なのではなかろうか。 こうした実情を探るため田村一郎は、第1章で板東俘虜収容所の「教育・学習機関」としての役割と、その背景をなすドイツでの教育制度について論じている。この章の中心テーマでもあるので、少し詳しく紹介しておこう。 板東ではことに講演活動が盛んで、平均月に8回、週に2回もの講演会が開かれている。「中国の夕べ」「軍事・時事問題」「ドイツの歴史と芸術」「郷土研究」「近代ドイツ史」など、内容も多彩である。ことに注目されるのは後の3シリーズが、ボーナー二等海兵、ゾルガー少尉、マーンフェルト伍長という3人の講師によって担当されていることである。ことにゾルガーはこれらをふくめ、通算100回もの講演を行っている。 これらの豊富で熱心な講師陣もさることながら、注目しなければならないのはこうした活動が熱心な受講者なり聴衆の存在なしには成り立たないことである。 ドイツの教育体制を見るうえで重要なのは、フリードリッヒ大王やその父王の頃から真剣に庶民教育と取り組み、それらを基礎として1871年にドイツ統一を達成したプロシャの例である。詳細は省かざるを得ないが、19世紀の末には8年制の無償の公立民衆学校の整備が進み、同年令の約9割がここでの学習を経て社会に出るようになる。残りの1割が民衆学校での4年の基礎教育を終えた後、高等教育につながる9年制の「ギムナジウム」と、中堅技術者をめざす6年制の「実科学校」に振り分けられることになる。 現在でもそうだが、ドイツではどの道を選ぶにしても、学歴とそれをもとにした資格試験に合格することが就職の絶対条件となる。「職業資格=教育資格+国家試験」という方程式が社会全体を支配しているのである。その点では、ギムナジウムを出て大学に入り、大学を修了することはもっとも有利なエリート・コースとなる。 ドイツでは大学入試はなく、ギムナジウムの終了成績である「アビトゥーア」がそのまま大学の入学資格になる。「アビトゥーア」は同時に、大学以外に進む際にも有利な資格となる。こうしたこともあって19世紀の後半に産業の比重が増すにつれ、従来の「実科学校」にさらに3年を加えた「実科ギナジウム」と「高等実科学校」が作られ、1901年にはこの2つのコースでも「アビトゥーア」を出せるようになる。「ギナジウム」を軸に教養市民層に独占されてきた大学への道が、実務系の市民層にも開かれることになるのである。 こうした流れは、軍隊ことに将校の登用にもはね返ってくる。重要なのは「1年志願兵」制度とそれにつながる「予備役将校」制度の新設である。ドイツでは19世紀から国民全体に兵役を貸す「徴兵制」がとられているが、兵役義務は当初では3年で、1893年からは2年に短縮される。それが実科学校を終えるかギナジウムなどの6年に在学していると、1年で兵役義務を終えられる「1年志願兵」の受験資格が与えられる。もっともこの制度を利用するためには、さらにその1年間に隊内で必要な経費をすべて自己負担しなければならない。いわば、有産者のバイパスとなるのである。 しかもこの制度が重視されたのは、それを終えると「予備役将校」への道が開けるからである。もちろん試験を経てのことだが、「1年志願兵」の半数は「予備役少尉」への道を選ぶことになる。 久留米からの90名が加わる際に作られた『収容所案内』によると、板東には20名の将校がいた。このうち「予備役」は9名である。おそらくこれらの人は、この制度の恩恵を被った将校だったのだろう。 問題は、一般の下士官・兵卒の教育歴であるが、これは全国の統計だが、前ページの「俘虜下士卒教育程度一覧表」(陸軍省「大正三年乃至九年戦役俘虜ニ関スル書類 1」)が参考になる。その「注」にあるとおり、当時のドイツと日本の教育制度にはかなりのずれがあり、単純には比較できないが、表の右側にかかれているドイツ兵だけに限っても、9年制のギムナジウム等卒と大卒が12.2%、実科学校とギムナジウム6年卒が13.8%、民衆学校卒が残りの74.1%ということになる。ドイツではそれぞれの課程を終了するのがかなりむずかしいし、おそらくこの調査はドイツ兵の自己申告をもとにしたものだろうから、いわゆる「卒業」ではなく「在学」と読み替えてよいのだろう。それにしても、望田幸男氏などが参考文献でくり返し強調している第1次世界大戦前は、民衆学校だけの終了者9割強、それ以上の学歴を持つ者1割以下という数字との違いが大きすぎる。その点では同じ表の左側に書かれている、オーストリア兵の大卒と高卒で1.7%、中卒20.1%、小卒78.2%という数字の方が信用できそうに思えるがどうだろうか。さらに、他の資料での検討も必要のようである。 以上が田村の論文の概要であるが、ドイツの当時の中等教育との関連については「第3節」で久野弘幸が、専門の立場から詳しく取り上げており参考になる。 「ドイツ人俘虜の東アジア研究」と題された「第4節」では、教育哲学専攻の木内陽一が収容所内での講演活動の一つの基盤が、明治の始めに東京と神戸に設置された、ふつう「OAG」と呼ばれている「ドイツ東洋文化研究協会」(別名「ドイツ東アジア博物学・民族学協会」)にあったことを紹介している。ことにその年報の第17巻(1922)には、1914年から20年までのドイツ兵俘虜のさまざまな論稿がまとめられており、その巻末には、板東でのドイツ兵の「勉強」の実情などを描いたボーナーの報告も載っている。 「第5節」から「第7節」では、自然科学・音楽・体育の面からのドイツ兵の活動の分析が行われている。米沢義彦は「第5節」で、松山時代の『陣営の火』と『バラッケ』の記事を分析しながら、ドイツ兵俘虜の「日本の自然」理解を伝えている。ことに板東収容所内に学名まで記載した「植物園」があったことや、『陣営の火』で自然科学に造詣の深いクラウトケ二等海兵が専門知識を活かして、「松山の動・植物」を絵入りで20ページにわたって紹介したことの意味などを取り上げている。 「第6節」は頃安利秀の執筆で、ドイツでの音楽教育にはふれていないが、板東での100回に及ぶコンサートを分析し、2年間の「演奏会開催日」をカレンダーで示したばかりでなく、「ジャンル別演奏回数」と「作曲家別演奏回数」を判りやすく図表にまとめている。 この章の最後の「第7節」も、直接体育教育とは結びつけられてはいないが、安藤幸が板東での「ドイツ兵の想い」を創作ダンスにまとめた経過と、各場面の狙いなどを述べている。全体では「交流」「板東にて」「独逸ヲ想フ」の3部からなり、各部に所内での主な出来事を配し、それにからまるドイツ兵の心情などを表現することで、魅力ある舞台作りに成功している。 |
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第2章 同時代資料に見るドイツ兵俘虜の生活 この章には、4編の論文が収められている。「第1節」で高橋啓は、収容所の警備にあたっていた板西警察分署の出張所の警備日誌『雑書編冊』と、その要点をまとめた「俘虜収容所沿革史」を取り上げている。 地域民にとってドイツ兵はけっして異質で迷惑な存在ではなかったようで、「殖産商工業及教育面」からみてプラスと受け止められていたようである。したがって警察官の観察も細やかで、ドイツ兵の生活スケジュ−ルや気質なども丹念に書き留めている。日本側からの給付金が少ないこともあって生活がひどくつましいこと、自立心が強く規則正しいこと、反面彼らは「極端ナル個人主義」で、雨が降って洗濯物を取り入れる際にも、他人のは見向きもしないなど、面白い逸話も含まれている。 ことに1,000人からの落とす金は少なくなく、その受け皿としての出入りの商人の間でのせめぎ合いも激しかったようである。もちろん地域民とのトラブルもあったようで、ことに女性とのかかわりがしばしば問題になっている。 『雑書編冊』は残念なことに、1917年4月12日から18年12月末までの前半しか残されていない。これから残りの部分が見つかる可能性はほとんどなかろうが、現存する分だけでも翻刻出版できれば、板東収容所のより身近な様相が知られよう。 「第2節」ではドイツ近代社会史専攻の田中優が、専門知識を活かしながら板東収容所でのドイツ兵の「共同性」意識の意味を分析している。 田中はまず、1916年に全国12カ所の収容所の実態調査をしたアメリカの外交官ウエルズの、徳島収容所には「俘虜と管理者の間に協同の気風」があったという言葉に注目する。何がそうした「気風」をつちかったのかを追う中で、田中は第1次大戦当時のドイツ兵の「共同性」意識の重層性に気づき、その所内諸活動とのかかわりを問うてゆく。 くり返し行われた皇帝の誕生祝いなどに見られるとおり、ドイツ兵の「共同性」の一つの支えは皇帝に象徴される「ドイツ」への愛着にあった。それは戦況の悪化につれ、「ヒンデンブルク」の名とも結びつけられる。 しかし「共同性」はこうしたナショナルな面ばかりでなく、個々人の自負と誇りをふまえた日常生活の場での仲間意識ともつながっている。いわば一種の「共同体」意識が、所内のボランティア活動や文化・スポ−ツ活動などの支えともなったとみなすのである。 こうした意識が大きく結実したのが「健康保険組合」で、徳島でも3,000人からの命を奪った「スペイン風邪」の際にも、所内の死者はわずか3名だった。しかもともに助けあうという「健康保険組合」の精神はたんに金銭的負担ばかりでなく、献身的な看護活動としても現れた。 田中はことにこうした支援活動の中で、所長をはじめ管理者が大きな役割を果たした点にも注目する。いわば管理者側がドイツ兵の「共同性」を、ナショナルな性格のものとしてばかりでなく、彼らの仲間意識を支える伝統からも理解できたところに、徳島収容所以来の「協同の気風」の基盤があったとみるのである。これまでの「バンド−」研究にはなかった、貴重な指摘といえよう。 日本の寺院史の研究者である大石雅章は、収容所内での宗教活動を「礼拝と宣教師」というテ−マで取り上げている。所内ではほぼ毎月カトリックとプロテスタントの礼拝が行われ、それを主宰した宣教師の名は判っていたが、どのような組織がそれを支えていたのかは、まったく知られていなかった。 大石はその点に着目し、プロテスタント側は東京の小石川上富坂を拠点とする「普及福音教会」が担当し、20世紀初頭にできた京都聖護院の教会と協力して神父を送っていたことを確かめる。板東を訪れていたフィンツィカ−、シラ−、シュレ−ダ−が所属していたのは、1884年に創設された「普及福音新教伝道会」に発する若い教団だったのである。 他方カトリックのアルヴァレス神父は、徳島や鳴門高島で布教に当たっていたらしいが、もう一人のフィンガ−神父は金沢・富山から訪れている。この人たちは「神言修道会」の所属で、この組織も1870年から80年頃に創設された若い教団である。 『雑書編冊』によるとプロテスタントの礼拝参加者は140名ほど、カトリックは40名ほどだそうだが、ドイツ兵の出身地がプロシャ領など北側に片寄っていたことも大きかったのだろう。 今後そこでの神父の講演内容などの分析などを含め、ドイツのアジア進出やさまざまな社会活動とのかかわりなども検討してくれるそうで、さらなる進展を期待したい。
最後の「第4節」は、以前からドイツ館の資料収集や整理に当たってきた中野正司による、「画像資料からみた板東俘虜収容所の施設と生活」である。 本ドイツ館は、第2次大戦後の元俘虜と地元民との「交流の復活」をきっかけに誕生している。したがって元俘虜からも、たくさんの貴重な資料が寄せられている。写真、スケッチ、デッサンなどのビジュアル資料もその一つで、ライポルト、プフルーガー、ヴィーティング、レートケなどのアルバムや、陸軍俘虜情報局刊の全国の収容所「俘虜写真帖」などが揃っている。 問題は、これらをどれだけ収容所ごと・時期ごとにきちんと整理するかだが、こうした作業はすでに中野らの手で一応終了している。次になされなければならないのは、文献資料とも付き合わせて、これらの写真等を収容所の施設や俘虜生活理解に役立つように系統性を持たせることである。 こうした作業はこれまでなされてこなかったが、中野は今回の共同研究を契機に、とくに板東収容所内の諸「施設」とビジュアル資料の関連の整理に着手している。もちろんそれらはそこでの「生活」とのかかわりからも説明されてはいるが、こちらの面は文献資料とも絡めてさらに深められることになろう。写真等の資料と対応させないと理解しにくいので、関心をお持ちの方は「報告書」をご覧いただきたい。 |
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第3章 ドイツ兵俘虜収容所の「いま」 この章には、3つの論文が載っている。「第1節」では旧ドイツ館の創設にかかわった西田素康が、「現代によみがえる板東俘虜収容所」と題して、建設の趣旨、建設への契機、展示物の収集などドイツ館設立当時の経過をまとめている。またリュ−ネブルクとの姉妹都市締結と市立工業高校の姉妹校調印などにもふれ、当事者でなければ知り得ないようなたくさんの貴重な情報を提供している。 「第2節」は田村の「他の収容所の研究動向」だが、この「館報」の前号で紹介してあるので省略する。 「第3節」は山本準の「名古屋俘虜収容所と現在」で、ご存命の元名古屋収容所長中島鉄之助大佐の長女美津子さん所蔵の、当時の写真帖を拝見したのを契機としている。アルバムの内容を分析したうえで、そこに見られる公園、寺院、城などが現在どう変わっているかを写真で対比している。 これらはそれぞれに興味深い面を含んでいるが、ここでは今回の調査の一環として、似島収容所跡を訪ねた米沢のルポルタージュを紹介しておこう。 似島収容所の現在 米 澤 義 彦
似島は、広島湾に浮かぶ周囲約12Kmほどの小島であるが、その北側にある東西に伸びる稜線の美しい山塊(標高278m)は、広島市民から「安芸小富士」と呼ばれて親しまれている。この似島は、日清戦争当時から軍港として発展した宇品港(広島港)の入口にあるため、1895(明治28)年には島の東北部分に陸軍の検疫所(第一検疫所)が設けられ、また、日露戦争が始まった1904(明治37)年には、島の南東部分に新たに第二検疫所が設置された。第一次大戦中の1917(大正6)年にはこの第二検疫所に俘虜収容所が併設され、大阪収容所から545名のドイツ兵が収容された。 この収容所の跡地には、現在広島市似島臨海少年自然の家と平和養老館が建設されているが、これらの施設の建設時に、収容所に関係した建物等は基礎を含めすべて取り除かれ、わずかに隣接する山地と敷地の境界にある水路が当時の名残をとどめているに過ぎない。 1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下された直後から似島の検疫所が被爆者の応急の治療施設となり、多くの被爆者がこの地で亡くなったために、地元の人々の記憶から「俘虜収容所」の思い出が薄れていき、ドイツ兵俘虜に関する資料も散逸してしまっており、まとまったものは残されていない。 しかし、1998(平成10)年に、似島の歴史や文化を後世に残すために、地元の人々が中心となって発行された『似島の口伝と史実(1)島の成り立ちと歩み』(似島郷土史料編纂委員会編集、似島連合町内会発行)には、島の人々の記憶から書き起こされた俘虜収容所に関する記述が収録されている。これによると、収容所開設時からすぐに収容所新聞『似島収容所新聞(Zeitung des Lagers Ninoshima)』(現在のところ未発見)が発行され、また、他の収容所と同様に、数多くの学習会や講演会、演劇の公演が催されている。また、戦争が終了したあとの1919(大正8)年には、広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で俘虜の製作品の展覧会が開催され、多くの人々でにぎわったという。このときの出品物の中に「バウムクーヘン」があり、これがたいそう人気であったそうである。現在神戸にある「ユーハイム」は、その流れを汲むものである。
また地元の有志の方からなる「ふるさと似島編集委員会」の編集による「ふるさと似島」という冊子も発行されており、この中にも似島収容所に関する記述があるが、その内容はほとんど重複している。 前述の『似島の口伝と史実』の大半を一人で執筆された宮崎佳都夫氏(似島在住)は、独力で似島収容所に関する資料を収集しておられ、いくつかの新しい史料も入手しておられるようである。近々これらの史料をもとに『似島の口伝と史実』の続編を執筆されるとのことであり、その成果を期待したい。 なお、収容所跡に建設されている広島市似島臨海少年自然の家では、宮崎氏などから資料の提供を受けて平和学習関連のパンフレットを発行したり、「バウムクーヘン」をつくる体験会などを開催しているそうである。 以上「事業報告書」をもとに、大まかだが今回の共同研究の概要と成果を紹介してきた。これを手がかりに、「報告書」の現物をお読みいただければ幸いである。 最後に、そこに盛られていない2つのことにふれておきたい。 一つは「館報」の第5号でもお伝えしたが、2001年秋の田村、小松によるドイツでの調査旅行で、これまでドイツ館には「第50号」しかなかった『徳島新報(Tokushima Anzeiger)』の1年半分が発見された。 この貴重な新聞も、『バラッケ』同様「古い筆記体」で書かれているが、朝日新聞での紹介を機に、全国から50名近くの方々が、自主的に現代文字への「解読」作業にご協力下さった。すでに作業は80%を越えており、翻訳・刊行の段階に向けて準備を進めているところである。 もう一つは、今回の共同研究の一つの目標であった調査・研究の「映像化」という課題が、鳴門市在住の山内茂雄氏のご協力によって達成されたことである。氏はほとんどの会議に出席してその様子を撮影されたばかりでなく、そこでの討議内容を的確に映像作りに活かして下さった。ことに新しいDVD技術を導入することで、ドイツ館展示を軸に収容所の諸相を紹介する鮮明な「基礎編」を作られた。この作品は「研究編」とともに、市内外での学習資料としても活用されることになろう。 なおこのDVDのナレーションは英語・ドイツ語・中国語にも吹き替えられ、ドイツ語版は今回のブラウンシュヴァイクでの「里帰り」公演の際にも上映される予定である。 |
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ホームページ「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の開設 丸亀ドイツ兵俘虜研究会 赤垣洋・小阪清行
周知のように、板東俘虜収容所には1917年4月に四国の3つの収容所から俘虜たちが集められましたが、そのうちの一つが丸亀の収容所でした。 丸亀にはドイツ兵テメの墓があり、その関係でドイツ総領事が慰霊祭に2回も参加されたり、また2001年4月16日には、ドイツのマンドリンオーケストラが総勢28名で墓参し、墓前で追悼の演奏をしたりしました。この流れを受けて同年9月に、第1回エンゲル祭が開催され、その際ドイツ館館長の田村一郎先生に記念講演をお願いいたしました。これらの出来事をきっかけとして、地元の歴史教師なども交えた「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」が生まれ、地道に勉強を続けてきております。 そんななか、今年3月に高知大学の瀬戸武彦先生が丸亀を訪問され、全国の研究状況などを伺った際に、俘虜研究が各地でてんでに行われており、研究者間のコンタクトが必ずしも十分ではないことが明らかになりました。丸亀の研究会にはたまたまホームページ作成技術を有する者が2名おり、その技術力をもってすれば幾ばくか俘虜研究に貢献できるのではないかという案が話題にのぼりました。漠然とした計画が急速に煮詰まっていったのは、「ヴァーチャル俘虜学会」についてすでに考えを暖めておられた習志野の俘虜研究者星昌幸さんの力です。氏から具体的なアドバイスをうけ、今年4月から「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のホームページをスタートさせました。 http://homepage3.nifty.com/akagaki/ このホームページのなかに「メール会報」というメニューがあります。4月に開始してまだ2ヶ月足らずですが、すでに9号を数えています。興味をお持ちの方は、ホームページ上からリンクしてご覧ください。また、ご連絡くだされればすぐに配信いたします。 今後もホームページとメール会報の充実に努めてまいりたいと思いますので、御支援・御協力のほどよろしくお願いいたします。 パウル・エンゲルについて 田 村 一 郎
先に紹介したとおりヘルマン・ハンゼンにつきましては、『徳島新報』発見の副産物として生い立ちやフレンスブルクに帰ってからの活躍、40才で亡くなったときの様子などが明らかになってきました。しかし板東での音楽活動のもう一人の柱だったパウル・エンゲルの情報は、音楽教育を受けたドレスデンなどに問い合わせてもはっきりしませんでした。 最近になって同志社大学の榎本泰子さんが、英文の「上海工部局年次報告書」を調べられ、1912年版の「パブリック・バンド」の名簿に習志野のミリエス、似島のプレフェナー、板東のガーライスと並んでエンゲルの名が載っているのを発見されました。それによるとエンゲルは、1912年にこのオーケストラに加入しています。この4人の名は1916年版には( )付きで掲載されていますが、その後は1920年の版を含めこの名簿から消えてしまいます。ということはエンゲルは、解放後は上海に戻らなかったことになりましょう。 なお榎本さんは1998年に、『楽人の都・上海』(研文出版)という本を出しています。「近代中国における西洋音楽の受容」という副題からも明らかなように、中国と西洋音楽の接点を探るというユニークな視点からの労作ですが、この本ではまだ西洋音楽にふれた中国人だけが取り上げられています。次巻が期待されます。 最近インターネットに入ったドイツのシュミットさんからの情報ですと、エンゲルは解放の1920年にインドネシアに渡ったそうです。1月27日に神戸を出た最後の帰国船ハドソン丸には、「和蘭(オランダ)政庁」や「蘭領東印度」で職を得た256名も乗船ていました。現地の警察や軍隊に入った人が多いようですが、エンゲルもそのうちの一人だったのでしょうか。その後のことはまだ不明のままです。 |
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「ドイツ文化講座」の開講
毎回シュルツさんが手作りの資料を用意し、オーバーヘッドのプロジェクターやスライドフィルムを使って話をし、最後に受講生の皆さんが質問をする形で進められています。 受講生の中にはドイツに詳しい人が多数おり、シュルツさんも入念な準備をし、受講生の質問も活発です。 皆さんの感想を伺ってみますと、旅行などでは知り得ないドイツの本当の姿に触れることができると好評です。今後の希望としては、もっとシュルツさん自身が実際に経験した話を聞いてみたいとの声も、寄せられています。 『二つの山河』のドイツ語訳完成 板東収容所を題材とした中村彰彦氏の『二つの山河』は、1994年度の「直木賞」を獲得しました。NHKなどでこの作品のテレビ・ドラマ化も検討されていますが、広くドイツ人に板東収容所を知ってもらうためにも、『二つの山河』をドイツ語訳してはとの声があがっていました。幸い阿波銀行学術・文化振興財団の助成金を得ることができ、徳島大学客員講師ヴォルフガング・ヘルベルト博士に翻訳を依頼しました。 ヘルベルトさんは周囲のドイツ語仲間などの協力も得て翻訳を完成、このたび出版の運びとなりました。タイトルは内容を加味して、"Widergespiegelte Heimatwelten −Berge und Flusse "となっています。「思い出のふるさとー山と川とー」とでも、訳せばよいのでしょうか。「幕末からの歴史や人名・地名など、思ったより大変でした」と笑っておられましたが、心から感謝したいと思います。 『どこにいようと、そこがドイツだ』は、本館のガイドブックとして2000年春に刊行されました。おかげさまで好評で、徳島・鳴門の書店の協力もあって残り少なくなったため、このたび「改訂版」を出すことになりました。誤植・誤記などはもちろん、その後明らかになった点をあらため、より正確で判りやすくするように努めました。今後とも、ご愛読下さい。 定価1,000円(税込み) |
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今回も遅れ気味で申し訳ありませんが、「館報」の第6号をお届けします。やや堅苦しいテーマですが、鳴門教育大学と鳴門市の 「板東収容所」についての共同研究を「特集」してみました。 丸亀の赤垣さんと小阪さんのご努力で、全国ネットのホームページ「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」が開設されました。今回はお二 人にお願いして、その概要を紹介していただきました。「メール会報」欄にはすでに、全国各地からの情報が寄せられています。ドイツ 本国からの連絡などもあり、今後の大きな飛躍が期待されます。ご活用下さい。 去る5月10日、長年にわたってドイツ兵慰霊碑を守ってこられ、「交流の復活」のいしずえとなりました高橋春枝さんが亡くなりま した。89才でした。ドイツ館では、近く回顧展を開く予定です。 (田村) |
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