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鳴門市ドイツ館館報
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特集 「『青島戦争の際のドイツ兵収容所』についての研究誌」作りをめざして 2年ほど前に本ドイツ館で、関係地域の首長や教育委員会関係の方々にお集まりいただき、「日独国際交流の未来を探る」という「シンポジューム」を開いた。各地の実情や苦労などが語られ有意義な会だったが、その際こうした論議をさらに深めるためにも、「収容所サミット」のようなものを作ってはとの提起がなされ、賛同を得た。 その後さまざまな機会に関係者から、あの「サミット」の話はどうなっているのかとのお尋ねを受けた。残念ながら諸事にまぎれ、公的な形での詰めは進んでいない。しかしこうした期待に応えるためにも、とりあえず当館が中心となって、実質を伴った情報交換の場を作りたいとの意向をお伝えしたところ、ほとんどの方がご賛成下さった。そうした方向づけの一環として、今回はこの問題を中心に特集を組んでみた。
1 これまでの経過とお願い
館長 田村 一郎
ご承知のとおり鳴門市の「板東」は、わが国で初めてベートーヴェン『第九交響曲』が演奏された土地である。1918年6月1日(日)のことだが、これを記念して鳴門市は、1982年以降毎年6月の第1日曜に『第九』演奏会が開かれている。この催しには全国各地の「『第九』を歌う会」の方々などが参加されるばかりでなく、小澤征爾や小林研一郎など世界的な指揮者もタクトを振っている。 2001年はその演奏会の第20回に当たり、これを機会に市では5月3日からの1ヵ月間、「ドイチェ・ヴォッヘン(ドイツ週間)」と銘打って、「ドイツ兵収容所」と「日独交流」をめぐる一連のイヴェントを開催した。
当時の全国の収容所を紹介する「写真展」、日独のメンバーによる「音楽会」、横田庄一郎氏による「記念講演」などと並んで、「国内のドイツ兵俘虜とそれぞれの日独交流」という「パネルディスカッション」と、「日独国際交流の未来を探る」と題した「シンポジウムと公開サミット」も開かれた。 2番目の催しには、菅家会津若松市長、片山丸亀市長、川田上野村村長、石川久留米教育長、岩橋習志野副教育長が参加され、助言者のプライジンガー・ドイツ連邦共和国大阪神戸総領事を加えて、活発な意見が交わされた。最後に司会の溝上鳴門教育大学長が、地元の亀井市長の発言などをもとにまとめられたとおり、これを機会に「収容所サミット」のようなものを定期的に開き、さらに論議を深めることを誓い合って幕を閉じた。 もちろんこれまでも当時のドイツ兵収容所については、それぞれの地域で調査や研究が重ねられ、個別の交流や情報交換は行われてきた。しかし、関係者が一堂に会して論議するというようなことは、今回の「パネルディスカッション」をふくめ、初めてのことである。 こうした経過もあって、これらの会に参加された方々から、しばしば「サミット」はどうなっているのだとお尋ねをいただいた。本館ではこれをわれわれ当事者へのお叱りと受け止め、「サミット」という公的枠組みは先のこととしても、まず関係者の間での情報交換の場として手造りの冊子のようなものを作ってはと考えてきた。幸いほとんどの方の同意を得たので、僭越ながらわれわれ鳴門を発信基地として、具体案を練ってみたい。 その際重要なのは、ことにこれまで情報が伝わってこなかった地域や、個々人の方からの連絡である。ここにこのような研究をしたり関心をもっている人がいる、という情報でも結構である。「青島戦争の際の収容所」に関心をおもちのみなさんの、積極的なご協力をお願いしたい。
2 各地の状況 1)久留米俘虜収容所
久留米市教育委員会 堤 諭吉
鳴門市ドイツ館の田村一郎氏から、第一次世界大戦当時に日本国内に設置された俘 皆様もご存知のように、久留米俘虜収容所は、各地の収容所の中で「最も過酷でナチスの強制収容所(KZ)」に比することが出来るとも言われていますが、意外にもその内容はあまりよく知られていません。過去、久留米俘虜収容所に関する調査研究はほとんど行われておらず、このテーマに取り組んだのは唯一、坂本夏男氏だけでした(「久留米俘虜収容所の一側面(上)(下)一俘虜の収容、管理及び解放を中心にして一」,『久留米工業高等専門学校研究報告』第31号・32号所収 1980年ほか)。 地元で久留米俘虜収容所への関心が持たれるようになったのは、1996年6月〜8月にヴュルツブルグのシーボルト博物館で開催された、特別展示会「久留米、そして日本における他のドイツ人捕虜収容所<KURUME und andere deutsche Kriegsge‐fangenenlager in Japan>(1914-1920)」がきっかけです。ドイツ在住の生熊文(アヤ・プスター)さんからヨーリンデ・エバート博士の編集になる展示会のカタログが久留米市民図書館に送られてきたのです。
この間、1999年3月にはそれまでの収集資料をもとに『久留米俘虜収容所』(久留米市文化財団調査報告書第153集)を作成しました。その後はあまり積極的な調査研究や資料収集を行っておりませんが、久留米収容所の俘虜だった方々のご子息などからご寄贈いただいた資料を公開することが必要だと考え、本年3月に2冊目の冊子『ドイツ軍兵士と久留米 ー久留米俘虜収容所2ー 』を発行すべく現在、その作業を進めているところです。久留米俘虜収容所に関する調査研究は、板東や習志野などとは違って関心を持つ人も極めて少ないのですが今後、諸先生方のご指導・ご協力をいただきながら少しずつでも前進できればと思います。私どもは、各地の俘虜収容所についての研究・情報交換の冊子が発行されることになれば、きっと多くのことを学ぶことができるだろうと期待しています。
2)習志野俘虜収容所
歌の生命 習志野教育委員会 星 昌幸
先日、新聞の片隅にこんな訃報がでていたことにお気付きになっただろうか。「ノルベルト・シュルツェ氏“リリー・マルレーン”の作曲 ところでこのシュルツェ氏に、日本と意外な縁があったことは知られていない。作家のシュミット村木さんに教えていただいたことだが、彼の祖父エミール・シュルツェは、お雇い外国人教師として、ベルツ博士と共に現在の東京大学医学部の基礎を築いた人物だった。シュルツェの帰国後、その後任として外科を担当したのが、有名なスクリーバ博士であったという。 このように、無味乾燥な年表の陰には、不思議な人間の縁が秘められているものなのである。我々の関心の範囲で言えば、スクリーバ博士の次男は第一次大戦の折、青島で戦い、久留米と習志野で捕虜暮らしを送っている。 ところで、青島のドイツ捕虜を語る上でも、音楽を抜きにすることは出来ない。板東捕虜オーケストラがベートーヴェンの“第九”によって、鉄条網の中から敵味方を越えた友情を呼びかけたというおなじみのエピソードもまた、“リリー・マルレーン”に一脈通じるものかも知れない。音楽とは、やはりそうしたものなのであろう。 彼らは名曲を演奏するばかりでなく、収容所の中で作曲もやっていた。その一つ、習志野捕虜オーケストラの指揮者だったハンス 私には一つの夢がある。それは、板東や久留米など、当時各地の収容所でドイツ捕虜が作曲した歌を、1枚のCDに収めてみることである。歌には、独自の生命があるという。それが歴史の片隅からよみがえるとき、それはきっと新たな感動を生んでくれるものに違いないと思うのである。
3)その他の収容所
館長 田村 一郎
各地との情報交換や現地調査、新聞報道などをもとに、判る範囲でまとめてみた。 @ 徳島収容所 2000年春から鳴門市と鳴門教育大学の間で、「板東俘虜収容所」についての共同研究が行われてきたが、その一環である昨年9月のドイツでの資料調査で、『徳島新報(Tokushima Anzeiger)』のほぼ全巻を入手できた。ハンゼン指揮の「徳島オーケストラ」の50回のコンサートの演奏曲目が載っているなど、「板東」の前史を知る上でも貴重である。 現在50名からのヴォランティアの方々の協力を得て、「古い筆記体」の「現代文字化」を進めており、終わりしだい翻訳・刊行に取り組む予定である。 A 丸亀収容所
市の教育委員会の方から、調査・資料収集についての依頼があり調べてみたところ、防衛庁研究所図書館所蔵の「各俘虜収容所業務報告通綴」全9冊のうち、半分以上が丸亀関係の資料だった。「日誌」なども揃っており、音楽関連でも『エンゲル・オーケストラ その生成と発展 1914−1919』などがあって、取り組みがいがある。当日は私もこれらの資料をもとに話をさせてもらったが、市長をはじめ会場に溢れる人々が熱心に耳を澄ましてくれた。 「エンゲル祭」も、老若男女を問わずかなりの人が協力し、それなりの成果をあげた。市も力を入れ昨年12月の『広報』でも、5ページにわたって「俘虜軍人と丸亀の人々」という特集を組んでいる。この催しは昨年9月にも引き続き開かれており、地元の教員の方々などを中心に、研究会も組織された。今後の、研究の進展が期待される地域の一つである。昨年11月には、高松の三木充さん方で郵便関係の資料をたくさん保存されているとの連絡が入った。そのうち、お訪ねしてみたい。
B 松山収容所 これまで松山では、ロシア兵俘虜についてはいくらか取り組まれてきたが、ドイツ兵を扱ったのは才神時雄『松山収容所』(中公新書ー絶版)くらいだった。昨春愛媛大学のドイツ語関係の方が来られ、『陣営の火』を借りて行かれた。その際に「愛媛日独協会会報 第8号」(2001.7)をいただいたが、この冊子には「『青島守備軍司令部』寄贈図書ー愛媛における日独交流の跡?ー」と題された、森孝明(愛媛大学法文学部教授)の論稿が載っている。それによると青島戦時に鹵獲されたドイツ関係の書籍2万6千冊余りが、全国32ヵ所の中・高等教育機関などに配分され、旧制松山高校の500冊ほどが今でも残っているそうである。 なお昨年9月に出た『愛媛大学法文学部論 集人文科学編』 第13号に、安藤秀国・森孝明両氏による、『陣営の火』についての「研究ノート」が掲載されている。 C 姫路収容所 本年4月15日にファン・デア・ラーン氏が第一次大戦中に俘虜が収容されていた姫路市の本徳寺で、ライン河をのぞむ古城の模型を確認したとの、新聞報道があった。10月末に鳴門での「共同研究」のメンバーで姫路・青野ヶ原を回ってきたが、この模型が雨ざらしになっているのが気にかかった。
D 青野ヶ原収容所 5月30日に青野ヶ原で、元収容所の一部がそのまま発見されたとの新聞報道があった。今回加西市役所の方のご案内で訪ねてみたところ、将校棟の半分くらいと浴室などがかなりきちんと残っている。まもなく持主の家が建て替えられるため壊されるが、その一部は近くの小学校の体育館に保存されそうである。少し離れた所にトイレと井戸も残っているが、これも近く解体されそうとのことである。 E 似島収容所 似島については手持ちの資料が乏しく、1998年秋に広島の『読売新聞』の支社から、広島高師での俘虜のコンサートの写真が見つかったとの連絡があったのが最初である。その後2年ほど前に、「似島郷土史編集委員会」の事務局をされている宮崎佳都夫さんが本館に来られ、関連する写真等を持ち帰られている。そのうち連絡して、活動の実情などをお尋ねしたいと思っている。
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上記の冊子の、原稿等を募集いたします。団体でも個人でも構いませんし、研究でも、情報紹介、写真、その他の資料など、どのような形のものでも結構です。該当するものがございましたら、ぜひお送り下さい。今回は第1回として、一応6月をめどにまとめるつもりです。 1.締め切り 2003年6月末 2.枚数制限 なし 3.送付方法 どのような方法でも結構ですが、そのまま印刷しますので、できるだけ鮮明な原稿をお願い致します。 4.宛 先 〒779−0225 鳴門市大麻町桧字東山田55番地の2 鳴門市ドイツ館 田村一郎 TEL:088 689 0099 FAX:088 689 0909 e-mail:doitukan@city.naruto.tokushima.jp |
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TOKUSHIMA ANZEIGER 「『徳島新報(Tokushima Anzeiger)』解読」の窓口を担当して
綾羽 陽子
6月の全国紙に掲載されたことで、ボランティア募集には数日で100件を超えるお問い合わせをいただきました。解読作業がとても困難で、かつ無償であるという旨をお伝えしても、是非やってみたいとおっしゃる方ばかりでした。最終的に、全3号を約50名に分担してお願いしましたが、内容の難しさやコピーの見易さには、ばらつきが大きく、解読の難易度にはかなり差が出ました。現在ではドイツでもほとんど読める人がいない筆記体の上、かすれやにじみも多く見られ、努力を重ねてもどうしてもわからないと、途中で辞退された方もおられました。無事提出された方も、皆さんが当初予想したより、ずっと多くの手間と時間を費やして苦労されたようです。 ボランティアの皆さんには大学関係でお仕事されている方も多いのですが、目立ったのはご高齢の方でした。90歳を超えた方などは、内容について何度もお問い合わせをいただき、本当に熱心に解読を進めて下さいました。50年以上前に習ったドイツ語を思い出しながら解読したという方もおられます。やはり内容がわからないと正しい単語に変換出来ないと、翻訳まで送って下さった方や、ご夫婦で協力して作業された方もありました。内容が多岐にわたるため、関係資料の収集には大変苦労され、皆さん色々と工夫をして解読されたようです。また、当時の収容所について知識を得たいと、東京や三重、大阪、神戸などからドイツ館を訪ねて下さった方もいらっしゃいます。お手紙や電話だけではなく、直接お会いすることができたのは嬉しいことでした。 どの方も、解読はとても難しかったが、ドイツ人俘虜の日々の様子や考え方に直接ふれて、大変興味深かったとおっしゃっていました。約90年前に、収容所という制限の中で驚くほど多彩な活動を行った俘虜の方々にはもちろん、今回の解読に関わった国内外の方の、「わからないことを知りたい」という純粋かつ強い情熱と、その惜しみない努力に、あらためて感動しております。『徳島新報』の研究はまだ始まったばかりで、これから沢山の発見があるだろうと思います。素晴らしい歴史を知ることは、今の自分を見つめ直すきっかけになりました。今回、『徳島新報』の解読作業に微力ながらお手伝いができたことを、とても幸運に思います。 |
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ドイツ館への来客・手紙などから
昨年10月に、大阪の古山さんからご丁寧な提言をいただいた。 一つはドイツ館への足についてだが、たいていの案内書には、「JR板東駅から徒歩30分(実際は20分ほど)」程度しか載っていないそうである。徳島から「徳島バス」で、霊山寺か大麻比古神社まで来て歩くコースとか、大阪から高松・丸亀行きの「高速バス」で「鳴門西」で降りるコースなども、PRしてはとのことである。関係機関への連絡はもちろん、本紙でも随時ご紹介していきたい。手始めとして今回は、鳴門からの「市バス」をご紹介してみた。 第2は、「ドイツ橋」など周辺のガイドマップが大まかすぎてよく判らないこと、第3は、『バラッケ』の「古い筆記体」と現代文字との違いの判るような例示がほしいとの要望である。貴重なご指摘であり、工夫してみたい。 |
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「ドイツ村公園」の周辺整備について
以前にお知らせしたように、ドイツ館と賀川豊彦記念館をふくむ広い意味の「ドイツ村公園」の整備については、市の関連部署もそのメンバーに入っている「『ドイツ村公園』を創る会」が中心になって構想を練っている。現在論議が集中しているのは、昨年初めに相次いで発見された元兵舎の「バラッケ」の復元と、「冒険遊び場(仮称)」作りである。 「バラッケ」の復元については、それをより意義あるものにするためには、「国の有形文化財」に登録する必要がある。先に「バラッケ」発見の調査にもご協力くださり、これまでいくつもの「文化財」登録申請にかかわってこられた「建築設計士」森兼三郎氏の助言を得て、「ドイツ橋」「船本牧舎」などをふくめた登録の可能性を検討中である。 復元についてはこれまでもいくつかの案が出されているが、最近県が各地に設置している「道の駅」の一つの候補地に賀川豊彦記念館周辺があがっている。これが実現するとなると、その建物の一部として「バラッケ」を復元することも考えられ、期待を強めている。 |
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ドイツ館への道 〜「鳴門市営バス」〜
1日に行きは3本、帰りは2本とごくわずかだが、鳴門駅前からドイツ館を通る直通バスが出ている。9時30分と13時の「二番札所」行きと、11時の「板野南」行きで、30分ほどで着ける。帰りは12時4分と13時49分だが、少し時間がずれるが、徒歩7、8分の「ドイツ村公園」を通る17時27分も利用できる。 台数が少なく不便だが、取り柄は途中県道を外れて「旧撫養街道」を通ることで、ひなびた旅の気分を味わえる。すぐ間近の古い家並みの陰に、季節の花が咲き乱れたり、広々した畑の彼方に、ゆったりした徳島の眉山(びざん)をのぞめたり、結構楽しめる。もちろん「一番札所霊山寺」も通るので、「ドイツ館」と併せて回ることもできる。ぜひ一度、ご利用いただきたい。 |
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1ヶ月ほど遅れましたが、「館報 第5号」をお届けします。今回は、青島戦争時の「ドイツ兵収容所」についての「研究・情報交換誌」の刊行へのご協力を訴えてみました。 先日、ケルンの「日本文化会館」から連絡がありました。東京の「ドイツ・日本研究所」から「館報 第3号」の紹介をもらったが、こちらでも役立てたいので、これまでの分を送ってほしいし、今後も寄贈いただきたいとのことでした。 『徳島新報』の「解読」作業は、ほぼ3分の2の方が成果をお送り下さいました。残りの方につきましては再度ご連絡し、もし可能でしたら3月か4月でも結構ですので、引き続きお願いしたいと思っております。 次回は、鳴門市と鳴門教育大学の間で進めて参りました、「『板東俘虜収容所』共同研究」などについてお知らせする予定です。 (田村)
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