鳴門市ドイツ館館報
Ruhe(ルーエ やすらぎ)
発行者
鳴門市ドイツ館
〒779−0225
鳴門市大麻町桧字東山田55−2
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FAX(088)689-0909
第4号

「徳島新報」とヘルマン・ハンゼン

 館長 田 村 一 郎

 昨年9月,ドイツに資料調査に出かけた。その旅行については,館報の第2号で紹介したので省略する。その際,デンマークとの国境に近いフレンスブルクという町で,徳島収容所時代の新聞『徳島新報(Tokushima Anzeiger)』の全3巻が発見されたこともお伝えした。以下は,その後日談である。フィルムに撮ってもらった。

1.「マイクロフィルム」化の成功とボランティアの協力
 『徳島新報』を所蔵していたのは,フレンスブルクのミュールヴィック海軍学校の資料室である。そちらに「マイクロフィルム」化について相談したところ,思いがけず全3巻の現物が送られてきた。驚きもしたが大いに感謝し,早速専門の業者に頼んで2002年9月30日フィルムに撮ってもらった。
 次の問題は,この新聞も板東の所内新聞『ディ・バラッケ』と同じく,「古い筆記体」で書かれていることである。この文字のままで翻訳に取り組むのはかなりたいへんなので,現代文字化が必要である。このことと後で述べるハンゼンの件を,たまたまドイツ館に来られた中央紙の方に話したところ,文芸欄で紹介して下さった。しかもその最後に,現代文字化のボランティアを募っていることまで加えてである。
 この記事が結構な反響を呼び,100名もの方から問い合わせがあり,希望者に見本をお送りしたところ,50名近くの方がご協力下さることになった。感謝にたえない。

新聞記事2 ヘルマン・ハンゼンとのかかわり
 もう一つの副産物は,ベートーヴェンの『第九』の初演で有名なヘルマン・ハンゼンの消息がかなり明らかになったことである。今回の『徳島新報』を見てゆくと,第一巻の見開きにHansen(ハンゼン)というサインがある。以下各号に同じサインかHの文字があり,本人が寄 付したのかどうかは定かでないが,この町の出身であるヘルマン・ハンゼンが収容所で取っていた新聞である可能性が高い。
ちなみに当時全国の収容所には6名のHansen がいたが,ハンブルクの1名を除いた5名はすべてシュレースヴィッヒ・ホルシュタインの出である。しかしフレンスブルクあるいはその近辺の出身者は,ヘルマンとハンスの2人だけだった。
 このことをミュールヴィック海軍学校の担当者に問い合わせたところ,ここでは判らないが,地元の新聞社に連絡すれば協力してくれるのではとのご忠告をいただいた。早速お願いしたところ女性記者の方が関心を示し,いくつかの関連新聞に日本での『第九』の初演者がハンゼンで,日本でその消息を知りたがっているという記事を載せて下さった。
 その後ある歴史家の方が,市役所や教会などの資料を調べて下さって,略歴がはっきりしてきた。
 なおこの歴史家の報告によると,もう一人のフレンスブルク近くの出身のハンス・ハンゼンは,ヘルマンの8才下の弟である。やはり青島で戦い,福岡,久留米をへて板東に来ている。兄と同じく音楽学校を出た軍楽隊員またはオーボエ奏者(ともにHoboistまたはOboist という)で,おそらく徳島オーケストラ( 後のMAK オーケストラ) に属していたのだろう。
 なお兄のヘルマンは,川上さんの記事にもあるとおり,指揮ばかりでなく徳島収容所ではヴァイオリン独奏をしているが,板東収容所では2度ほどトロンボーンの独奏もしている。こちらは弟のハンスとの説もあるが,階級名からすると兄のようである。
 
   
1886.11.26 フレンスブルク近くの,グリュックスブルク(Glucksburg)で生まれる。
オーデル河口の,シュテッティーンの音楽学校で学ぶ。
1904.5.26(18才) 海軍に入隊
1909.10.1(23才) 負傷して一時帰宅。12月に原隊復帰
1914.11 (28才) 青島で,「膠州海軍砲兵大隊(MAK)第3中隊」の一等軍楽兵曹として軍楽隊の指揮をとっていたが,敗戦後徳島,板東に収容される。
1918.6.1(32才) 板東収容所で『第九』を演奏
1919.8 (33才) シュレースヴィッヒの帰属を決める住民投票のため,先に帰国
1920  (34才) 傷病兵であり,公務員を希望。市の広報係,秘書官,参事などを勤める。
1925  (39才)  オーケストラはなかったので,休日には声楽クラブ「フェニックス」に参加していたが,25年に指揮者に。
1927.3.13(40才) 病気のため死亡。結婚はしていたが,子どもはなかった。
   


「徳島俘虜収容所におけるハンゼンとそのオーケストラ」

ドイツ館史料研究会  川 上 三 郎

 『徳島新報』(Tokushima Anzeiger)のほとんどが昨年発見された結果,その内容を見ることができるようになり,徳島俘虜収容所時代の俘虜たちの活動の様子がかなり詳しく分かってきた。音楽活動についても,同様である。
 徳島では,早い段階から「徳島オーケストラ」という名前の楽団が作られ,活発な演奏活動を行って,楽しみの少ない収容所生活に潤いを与えていた。
 『徳島新報』には1915年4月から1916年8月までの演奏会の曲目が記載されている。その間50回ほど,曲目数では大小取り混ぜて250曲近くが演奏されており,その回数の多さと曲目の多彩さに目を見張る。もちろん「演奏会」という名前がついても,いわゆるミニ・コンサートといった感じのものが大半である。曲目には,行進曲からワルツ,ポルカ,当時流行していたと見られる曲,歌劇の序曲やメドレー風に編曲したものなどが多く見られる。その中で有名なものをあげると,ラデツキー行進曲,行進曲「旧友」,ワルツ「美しく青きドナウ」,ワルツ「ウィーンの森の物語」,「フィガロの結婚」序曲,あるいはメンデルスゾーンの「春の歌」といった小品まである。

『徳島新報 第1巻第16号』 一方ではシンフォニー・コンサートと銘打った,本格的なクラシック音楽の演奏会も4回記録されている。ハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」と第94番「驚愕」(当時の番号づけで,それぞれ第1番と第6番),モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」といった名曲を演奏している。「驚愕」は1882(明15)年に横浜で演奏されているが,「太鼓連打」は本邦初演である。
 さて以上のような演奏活動の中心で,指導的な役割を果たしていたのがヘルマン・ハンゼンである。彼はただ単に楽団の指揮をとるというだけでなく,編曲したり,楽譜を書いたりもしている。最初楽譜が何もなかった頃には,自分の記憶を元に総譜を書いたり,簡単なピアノ用の楽譜を元にオーケストラ用に編曲をしたりしているから,相当の音楽的な素養を持った人だったのだろう。『徳島新報』を読んで初めて知り驚いたのは,彼がバイオリンのソロをたびたび演奏していることである。シンフォニー・コンサートではベートーヴェンのバイオリン協奏曲全曲を演奏しており,かなりの力量であったことがうかがえる。
 彼は非常な熱意と精力を傾けて楽団のための仕事と指導にあたり,第50回演奏会についての記事では,オーケストラ活動そのものは彼なくして語れない,と賞賛されている。ところでその演奏会では,ベートーヴェンの交響曲第9番から「歓喜に寄す」の部分を,プログラムに取り上げている。ひょっとしたらこのときから既に,この偉大な交響曲を演奏したいという願望を抱いていたのかもしれない。



「第9回 ドイチェス・フェスト in なると」について


国際交流員  ローランド・シュルツ

 高松自動車道の開通もあって,例年より早く今年の7月下旬に,「ドイチェス・フェスト」が鳴門市ドイツ館で開催されました。国際交流員である私は,このイベントに参加するのは2回目です。
 御存じのように,第一次世界大戦当時ドイツ兵俘虜と地元住民との友好的な交流が,現代のドイツと鳴門市の友好関係の基礎になりました。そして「ドイチェス・フェスト」は,鳴門市の幅広い国際友好交流のイベントの一つです。ドイツのワイン,ウインナー,ビールの物産展も,日本の料理の販売もありました。フリーマーケットも,ありました。獅子舞いや日本人の芸人のパフォーマンス,外国人留学生などによる民族舞踊もありました。もちろん例年と同様に,ドイツからの芸術家も招待されました。今年は,ドイツのフランクフルト市に近いバート・ホンブルク市からラインハート・ヴィットという大道芸人の方と,地元の「日独文化交流を推進する会」の協力で,ニーダーザクセン州のランゲンドルフ市からマンドリン・オーケストラが,イベントに参加しました。
 大道芸人のヴィットさん大道芸人のヴィットさんはボールの曲芸,一輪車の芸,はしご歩き,変身の芸や大風船の芸などのパフォーマンスをしました。芸をしながら彼は,日本語で解説しました。彼は日本語が分かりませんので,全部の日本語の解説を暗記しました。暗記の努力のかいがあって,ヴィットさんと日本の観客の間の距離が縮まり,ヴィットさんに観客は好感を持ったようです。また,ヴィットさんが観客の一人に舞台でアシスタントを頼んでから,観客との接触が強まり,楽しい気分も高まりました。
 ヴィットさんの一番面白いパフォーマンスは,大風船を使って変身するパフォーマンスだったと思います。空気が入っている大風船にヴィットさんの体が全部入ってしまうと,後ろに座っている観客が伸び上がって見ていました。とても感嘆していることを観客の顔から読み取ることができました。
 そうこうするうちに,神戸をたったドイツのマンドリン・オーケストラが到着しました。
 10代から40代までの幅広い年齢層で構成されている,メンバー約30人です。エバハート・マリチウスという明るい牧師の指揮のもとで,モーツァルト,ヨハン・シュタミッツや和田ヤスオの曲などの多様なプログラムが演奏されました。
 オーケストラの人々は演奏の前に,二階の板東俘虜収容所の展示を観覧しました。オーケストラのメンバーは,当時のドイツ兵俘虜や板東収容所のことをあまり知りませんでした。松江所長の比較的自由な管理体制の下で,ドイツ兵俘虜が収容所内外でスポーツ,農業,音楽などのいろいろな活動を活発に行っていたことに感動し,地元住民と友好的な文化交流ができたことに興味を持ちました。また当時の板東収容所にも,オーケストラや合唱団の他に,マンドリン楽団もあったことにびっくりしていました。
 今年の「ドイチェス・フェスト」も,ヴィットさんやマンドリン・オーケストラが来てくれたおかげで,観客と有意義な交流がくり広げられました。



「高速道路」のメリットとデメリット


ドイツ館副館長  中 野 正 司

  平成14年7月21日,四国横断自動車道「鳴門−板野間」が開通した。ドイツ館周辺地図このため,ドイツ館の南側を高速道路が通ることになった。お陰で,すぐ近くに鳴門西パーキングエリアができ,そこには高速バス停(鳴門西BS)も造られ,大阪−高松間だけでも1日32 往復もの高速バスが運行している。このバス停からドイツ館までは,徒歩10 分。多少傾斜があるので,歩くのが難しいと思われる方はそこからタクシーを使えば,ほとんど時間はかからない。京阪神や香川県から訪れるお客様にとっては,非常に便利になったといえる。
 反面,高速道路の開通によるデメリットも出始めている。これまで鳴門I.C から板野I.C までは,ドイツ館のすぐ側を通る県道12 号(鳴門池田)線を使う以外にはなかったのに,開通してからは素通りになってしまったことが一つ。もう一つの大きなデメリットは,県道12 号線からは高速道路に遮られて,ドイツ館がほとんど見えなくなったことである。
 これは,たちまちお客様に迷惑をかける結果となった。県道から,特色のあるドイツ館の建物を目標に来られていたお客様が,建物が見えなくなったため迷われるケースが非常に増えているからだ。直接車から携帯電話で,「ドイツ館の場所が分からない」との苦情さえあった。
 前者の素通りのためのデメリットは,残念ながら数値的には計れない。神戸淡路鳴門自動車道と四国横断自動車道が繁がったことによる通行台数の増加と,相殺されるのではないかという見方もあるが,前年度からの観覧客数の減少を含めて,やはりデメリットが大きいのではないかと思われる。
 いずれにせよ,ドイツ館はまだまだ知られていない。それが,一番の問題である。新館がオープンしてから9年,それなりにマスコミにも話題を提供してきたのにもかかわらず,全国的には無名の存在でしかない。たまたま館を訪れたお客様からは,「感動しました! こんな素晴らしい施設があることを知りませんでした。もっともっと宣伝してください」との要望も多く出されている。高速道路の開通よりも,今年4月開館した賀川豊彦記念館と合わせて,人間愛をテーマに心からの感動を与える全国でも数少ない施設として,どのように全国に知らせていくかが,これからの最大の課題であろう。



最近のドイツ館での行事から

 「ドイツ館館報 ルーエ第3号」が刊行された本年5月25日以降も,本館を会場に多彩な催しが行われた。
 5月10日に始まった写真家三好和義氏の「巡回展清流海部川」は,6月9日まで展示され,たくさんの人が見入っていた。
 5月26日には「第1回 バンドー芸術祭」と銘打って,丸亀収容所でその一部が取り上げられたことのある,ベートーヴェンの「七重奏曲」などが演奏された。今後も,板東収容所などのゆかりの曲を混えて,「バンドー」らしさを出してゆきたい。なお8月25日(日)には,その「バンドー芸術祭」の「スペシャル」版として,ドイツ留学中の佐藤郁帆さんのピアノ・リサイタルがあり,その細やかな演奏は,特別サービスのドイツ・ワインともども,来客を喜ばせた。
 ドイツ館が会場ではなかったが,6月2日(日)に文化会館で恒例の「第21回ベートーヴェン『第九交響曲』演奏会」が催された。リューネブルクからの指揮者トイス氏の,オペラ風の演奏は好評だったようである。
 「ドイチェス・フェスト」はこれまで10月の末が恒例だったが,第9回を迎えた今年は,「高松自動車道」の開通を記念して7月28日(日)に開かれた。日数は経費の削減もあって1日に縮小されたが,ドイツから大道芸のヴィットさんとランゲンドルフのマンドリン・オーケストラが参加され,たくさんの市民の方が楽しんだ。
    8月3日(金)には,「シベリア抑留問題を考える集い」が開かれた。地味な催しだったが会場いっぱいの人々が集まり,地元の「シベリア」体験者樫原,林両氏の話と,徳島大学の国際政治学専攻の饗場氏の講演に耳を澄ました。
 例年大麻地区の方々を中心に催されている「ピース・コンサート」は,今年も8月18日(日)に行われ盛会だった。
 このほか9月7日(土)には,高松の「ビッグ・エス」主催の「第3回 全国ドイツ語スピーチコンテスト」が,ドイツとのかかわりが深いとのことから本館で開かれた。参加者は16 名とやや少なかったが,プライジンガー・ドイツ総領事も審査委員長−として参加下さり,後のワイン・パーティーをふくめ,たくさんの人がドイツ語やドイツを楽しんだ。
 今後も狭い意味のドイツとのかかわりばかりでなく,さまざまな文化活動の拠点として,幅広い活動を強めていきたい。ご希望をおもちの方は,遠慮なくご相談いただきたい。

(田村)

ドイツ語スピーチコンテスト
鳴門市ドイツ館行事案内
・10月12日(土)〜12月1日(日) 
特別企画展『徳島新報』とヘルマン・ハンゼン
・10月31日(木) 
宝くじ文化公演「ジャズコーラス・フライブルクとコーラス9のジョイント・コンサート」(青少年対象)
・1月19日(日)
第6回「マルディグラ」:「ベラ&フリーダム・トレイン」(ソウル・ミュージック)
ほか


編集後記

  「館報 ルーエ」の、第4号をお届けします。前号では,ドイツでの調査旅行の際に『徳島新報』全3巻が発見されたことをお伝えしましたが,今回はその後日談をまとめてみました。「古い筆記体」の「現代文字化」へのボランティアの協力,ドイツでの「ヘルマン・ハンゼン探し」のほか,史料研究会の川上さんには,徳島収容所での音楽関係の記事を紹介していただきました。その他,この間の諸行事なども紹介してみました。
 『徳島新報』の具体的内容や,徳島でのハンゼンを中心にした音楽活動などの詳細につきましては,10月12日からの「特別企画展」でお楽しみ下さい。
 「ドイツ語版第2号」はやや遅くなりましたが,11月頃刊行の予定です。

(田村)


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