鳴門市ドイツ館館報
Ruhe(ルーエ やすらぎ)
発行者
鳴門市ドイツ館
〒779−0225
鳴門市大麻町桧字東山田55−2
TEL(088)689-0099
FAX(088)689-0909
第3号
「バラッケ」発見!!

1 「発見」の経過と概要

 館長 田 村 一 郎

 本年の年明け早々に、元「板東俘虜収容所」の「バラッケ」を移築したと思われる倉庫などが相次いで発見された(「徳島新聞」の関連記事参照)。「バラッケ」とは、英語の「バラック」つまり粗末な小屋という意味で、ことに「板東」では下士官・兵卒用の建物がそう呼ばれていた。当時は8棟あって、その第1号棟の東半分は催し場として活用され、1918(大正7)年6月1日のベートーベン『第九交響曲』の初演もここで行われている。
 1920(大正9)年初めにすべてのドイツ兵が解放された後、これらの建物は陸軍の演習施設として利用され、近隣の旧制中学や女学校の訓練の場としても使われた。
 1945(昭和20)年8月に太平洋戦争が終わると、これらの施設は徳島で戦災にあった人や、満州・朝鮮などの外地からの引揚者の住宅に当てられた。とうぜんさまざまな修理や改築が行われたが、建物の外観はそのまま残されていた。
 さらに老朽化も進み、現在の県営住宅「大麻団地」の計画が立てられ、1967(昭和42)年に1、2号棟が、翌年には3、4号棟が建てられた。
 県の建築課に残されている「昭和42年 改良住宅大麻団地関係綴り」という資料によると、このとき改築対象となったのは、元の「バラッケ」の東側半分の第5号棟から第8号棟の4棟分と、管理棟などの施設である。ということは、西半分の第1号棟から4号棟までの4棟とその北側の諸施設は、太平洋戦争終結時にはすでに失くなっていたということになる。

板東俘虜収容所略図
「元収容所との対比図」
 さらに複雑なのは現在の県営住宅が建っているのが、その東側「バラッケ」の左半分の跡地だということである。つまり右半分とその他の施設の部分が、今の「ドイツ村公園」になっているのである。(右の「元収容所との対比図」参照)。この公園には、20メートルほどの元「バラッケ」の煉瓦の土台が4棟分残されているが、これはその名残りである。
 もともと「バラッケ」の1棟の長さは、約73メートルあった。その中間に3メートル弱の入り口があったから、それをはさんで両側に約35メートルの居室が並んでいたことになる。演習施設の段階でか、引揚者住宅になってからかは定かでないが、それが1棟の長さ65メートルほどに縮小され、真ん中の入り口を除いた両側の棟の長さは31メートルに縮んでいる。最初に見つかった安芸さん宅のが一番長く約28メートルあるが、これでも端を少し切り落としていたことになる。その後「発見略図」に見られるように大小7軒が見つかっているが、中には半分づつ分けたり、管理棟などを移築したのもあるようである。
 新聞を見た阿南市の方から、自分が勤めていた「吉見石灰工業」の倉庫の作りがそっくりとのご連絡をいただいた。なるほど4棟が残っている建物はよく似ており、とくに小さい倉庫は梁までほぼ同じである。ただこうした「擬洋風建築」は当時かなり普及していたとのことで、板東地域でもかなりの数が発見されていることもあり、ひょっとしたら蔵本の連隊などの建物を移築したのかもしれない。
 それはともかくせっかくの遺産なので、「ドイツ村公園」整備の一環としてぜひいくつかでも復元し、そこで「第九」を演奏したり、ドイツ風のソーセージやビールを楽しんでみたいものである。



2 思いがけない「バラッケ」の発見

「ドイツ館友の会」会長  林   啓 介

 昨年の暮れのことであった。ドイツ人俘虜が抑留中最も楽しみにしていたヴァイ・ナハト(クリスマス)のイベントを再現してみようと、ドイツ館友の会の主催で「クリスマスの集い」(130人参加)を開いた後の雑談の中で、思いもかけない話を耳にしたのである。
 友の会会員で建設会社社長の賀勢正和さんが、「収容所跡から北へ約1キロ離れた椎尾谷の安芸信義さん方に当時のバラッケによく似た建物がある。前から気になっていたのだが…」と語り始めたのであった。
 現在収容所にはレンガの土台とセンダンの巨木しか往時の遺物はなく常々私たちは残念に思っていたところなので、半信半疑の気持のまま賀勢さんと二人で見に行った。持参した当時のバラッケの写真などと見比べている内に、「洋小屋組み」という独特の工法を用いたところや中央に通路がありその両側に俘虜の部屋があった構成、建物の幅などが酷似していた。長年牛小屋としてそのまま使用されていたため保存状態も良好だった。
 まず間違いないと思い、建築史の研究で県内の第一人者である森兼三郎さんに見ていただいた。その結果、梁,合掌,束,方杖を三角形に組んだ「洋小屋トラスト」と呼ばれる屋根裏の構造や幅、窓わくなどが決め手となり、バラッケの一部であることが確認された。
 その上、当時の部材がほとんどそのまま保存された擬洋風建築として極めて貴重な歴史遺産であることも判明した。
 そのことがマスコミに報じられると、相次いでバラッケに関する情報が寄せられるようになった。桧地区の圃山氏宅倉庫、板東東集会所の舞姫会館、萩原の柿本公氏宅の倉庫など地元大麻町をはじめ、板野町・阿南市からも類似のものが発見されたのである。
 それらは最初に見つかった安芸氏宅の牛小屋ほどの規模や保存状態にはないものの、いずれも天井部に「洋小屋組み」の構築をとどめている。俘虜収容所のバラッケは、俘虜解放後は陸軍の練習用兵舎として用いられ、第二次大戦後は満州などの海外引揚者用の住宅として使用されていたものであるが、1960年代に町内の建設業者に県から払い下げられていたものであった。払い下げ作業に従事した富樫さんの証言も得られた。
 これまで長年その存在が疑問視され、関係者が残念に思っていただけに、この度の発見はまさに「灯台もと暗し」の感があり、望外の大きな歓びという他はない。
 何とかこの貴重な文化遺産を市当局を中心に、各方面の協力を得て、収容所跡に移築復元していただきたいものと切望する次第である。それによって、ドイツ館、賀川記念館、収容所跡と3つの核が形成され、ドイツ村の相乗効果をより高めることが期待できるであろう。

 

「バラッケ」発見関連図

 



「鳴門市賀川豊彦記念館」のオープンに当たって


賀川豊彦鳴門記念館設立を目指す会

事務局長  武 知 忠 義

 平成14(2002)年3月23日に鳴門市賀川豊彦記念館が開館し、4月1日に鳴門市に運営移管が行われた。この記念館は民間人の浄財によって建築物も内容物もつくられ鳴門市に寄附されたもので、全国的にもめずらしい記念館といえるであろう。私たち賀川記念館の設立運動に携わってきたものにとっては、極めて感慨深い思いのこもった館である。
 思い返せば平成8(1996)年5月に設立を目指す会が発足してから約6年が経過している。初めの4年間は会員制で集金活動を行い、後の2年は寄附活動で募金をつのった。その間、財団法人とか社団法人への道を模索して行きづまったり、思い通りに募金が集まらずに悩んだりで紆余曲折があったが最終的には目標額に近い1億円余りの浄財が集まり建物・内容物共に相当充実させることができたと考えている。出来上がって見て、没後40年余にして郷土徳島に記念館を作らしめた賀川豊彦の偉大さを改めて噛みしめている。応援して下さった全国の皆さんに、心から謝意を表したい。
 賀川記念館は、東京の松沢記念館をはじめ、神戸、本所(東京)、コープこうべ協同学苑(三木市)などにもつくられているが、展示内容の多様性や保有資料において松沢資料館に次ぐ施設といえよう。それは松沢と鳴門以外の館が、展示や資料保存以外の社会福祉活動を目的としているためでもある。
 この記念館がドイツ村公園区域につくられ、ドイツ館と隣合わせになっていることは、単に観光効果増強というばかりでなく、国際友好と平和の観点からも意義深いと考える。それに加えて賀川豊彦とドイツ人俘虜収容所との関係もあなどり難い関係を有している。賀川はドイツ人帰還直後の収容所を訪れ、収容所内の健康保険制度や酪農技術について学んでいる。回を重ねたドイツ訪問の中で鳴門市の姉妹都市をも訪ね、その地の福祉制度を勉強した。またドイツ人俘虜が建設した牧舎の2階で戦前、戦後と農民福音学校を開いていた。そうした縁を考えるとドイツ館と賀川記念館は極めて因縁浅からずといえる。賀川記念館は賀川豊彦の精神を継承し実践化できるよう“活動する館”であることを期している。あれこれ多彩な行事をもくろむつもりでいるので、これからも積極的に応援して下さるよう切望している。 リューネブルク  ご当人は演劇の音楽監督をしていた芸術家で、息子は現在のライプツィヒ市長だった。その人が電話しておいてくれたせいもあるのだろう、「国立図書館」ではとても親切にしてくれた。
 ライプツィヒはドイツ統一の際にも率先して運動を展開した町で、民衆のエネルギーを示す記念館はなかなかの迫力だった。ゲーテの『ファウスト』に出てくる「アウエルバッハの酒場」や、バッハゆかりの教会など見所も多い。ことに最後の夜、運良く「ゲバントハウス」でブルックナーの「九番」を聴けた。指揮者の間近かの席で4千円、隣の方が感動する私に嬉しそうに何度も微笑みかけてくれた。やや緊張はしたが、個人的にもそれなりに成果のあったよい旅行だった。


「〈ドイツ村公園〉を創る会」の発足

 先にふれたとおり、「板東俘虜収容所」の跡地の東側の部分に作られた現在の「ドイツ村公園」は、1976(昭和51)年に市の都市計画として着手された。以後「友愛の碑」やドイツ橋の模型が建てられるなど何期かにわたって整備されてきたが、最近は年に何度かの草刈りがなされる程度で、環境整備はほとんど地域のボランティアの手に頼っているのが実情である。
 ところがこのたび、公園の中央をよぎって「高速道路」が作られることになった。これを機会に亀井市長から、公園整備の長期計画を練ってほしいとの要望が出され、昨年1月に「〈ドイツ村公園〉見直し委員会」が作られた。以後約半年の検討を経て、7月に「提言」がまとめられた(本「提言」をご覧になりたい方は、都市計画課にご連絡下さい)。
 討議の過程でも、この「提言」を財政が好転した10年・20年後に先送りするのでなく、計画の基本線に沿って、当面できることから取り組んではとの意見が出された。こうした声を生かすため、鳴門市在住の「検討委員会」の委員が討議を重ね、次のような新しい組織を作ることになった。
 まず「会の目的」だが、次の4点にまとめることができる。
@ 先の市長に提出した「提言」をふまえ、当面取り組める「ドイツ村公園」整備の具体案を検討する。
A あの案をもとに、できることから実現を図る。
B 公園内にある「ドイツ館」や「賀川豊彦記念館」の円滑な運営、周辺での諸行事・環境整備等に協力する。
C こうした活動を通じて、大麻地区ばかりでなく鳴門市全域の活性化の一翼を担う。
 会の名は、「〈ドイツ村公園〉を創る会」とすることになった。メンバーは大麻地域の商工会、自治振興会、ボランティア諸グループ、ドイツ館、賀川記念館などの関係者ばかりでなく、日独協会、「第九」友の会、観光協会、教育委員など全市的見地からご協力いただける方、さらに市からも、都市計画課や文化振興課関係者に加わっていただいた。
 当面「環境整備」と「イベント」の2つの部会を柱に、具体計画の策定に入っている。「環境整備」では、広い「ドイツ村公園」をいかにして清潔で魅力あるものにしてゆくかが課題だが、都市計画課の「上の池」周辺を菩堤樹の森にするなどの構想も生かしながら、グループごとで小区画を分担するなどの可能性を検討中である。
 またその間「賀川記念館」の開館に併わせ、3つの花壇の整備に協力し、たくさんの方々が牛肥を運んだり、大麻中学の生徒の植樹の指導にあたるなど、一定の成果を上げた。
 「イベント」は当面「ドイツ館」が中心だが、部長の藤田さんの努力で、「マルディグラ」など他の行事をふくめ、ほぼ2ケ月に1回の開催を計画している。その手始めとして、5月26日に「第1回バンドー芸術祭」が開かれる。できれば「板東」や他の収容所で、演奏されたり上演されたものを一つでも紹介することをめざしたいと考えている。今回はベートーヴェンの「七重奏曲」がそれにあたり、第2、3、4楽章が「丸亀」で2度に分けて演奏されている。若手の演奏者が熱心な練習を重ねており、一人でも多くの方にお出でいただけるよう、ご協力をお願いしたい。

 (田村)



クリスマスカードが物語るもの

 大 熊 弘 子

 ドイツ兵俘虜が製作したクリスマスカードが、ドイツ館に展示されているのを御存知ですか?
 私はこのクリスマスカードを見るたび胸がちょっと熱くなります。ドイツ館に勤務するようになって最初は、デザイン豊かなプログラムやユーモア溢れる生活のスケッチなどに興味を持ちました。1年ほどたったある日、フッとこのクリスマスカードにひきこまれるようになりました。
 御存知のように、板東俘虜収容所は模範収容所と呼ばれるような人道的な収容所で、ドイツ兵俘虜達は捕らわれの身ではありましたが、明るく前向きに生活していたように思われます。お出でになるお客様の中には、「こんなの捕虜じゃない、シベリアに比べたら快適すぎる、こんな生活は遊んでいるようなものだなあ」等とおっしゃる方もいます。確かにいろいろな活動は積極的で、スポーツ、音楽、演劇、講演会、ミニチュアの人形達の食事の場面でもごちそうを食べているように見えますよね。
 でもどんなに快適なように見えても、ここは異国の山の中。家族や友人、恋人そして懐かしい故郷への想い。故郷に帰りたい。いつになったら我々は帰れるのだろう。カードには、こんな気持ちが溢れているのです。ツリーの飾られた部屋でうなだれたり後姿で泣いている俘虜。壁には日本に連れてこられた1914年から18年までの年号と、これからもまだカードを作るであろう空白の年の暗示。ツリーを飾った部屋の外では見張り役の銃をかまえた日本兵。プレゼントを渡すサンタクロースの手に船が描かれたカード等。80年以上の時を超えてこのクリスマスカードは、私に望郷の想いを切々と訴えてくるのです。
 決して派手なカードではないので、お客様は気付かずに見落とされてしまうことが多いようですが、次に来館の折には、ぜひこのクリスマスカードの前で足を止め、俘虜達の望郷の想いを共感してほしいと思います。


ドイツ館への来客・手紙などから

 「総合学習」が始まったせいもあってか、昨年度は小・中学生、高校生の来館が増えているようである。小学生は8校562名、中学生は3校337名、高校生は419名だが、ことに中学・高校は県外が多く心強い。問い合わせの電話なども時折あるので、これからも接点を広げてゆきたい。

 5月始めに、早稲田実業高校から『2001 高2 瀬戸内教室―地域学習の記録―』という分厚い冊子が送られてきた。昨年の暮れ5人の学生がドイツ館にやってきて、熱心に勉強して帰ったが、それらをふくめた報告集である。この高校ではこれまで、新潟の奥只見と岩手を題材にした学外研修を行ってきたそうだが、今回はさらに幅を広げ、瀬戸内の岡山・香川・徳島・広島の各県を訪れている。

 交渉の段階から学生が自主的に企画を練っているようで、数人づつでグループを組みテーマも多様である。徳島だけにかぎっても、鮎・カメ・養殖などの漁業から、半田ソーメン・和三盆などの特産品、藍染・木偶・大谷焼などの文化面など、それぞれに工夫をこらしたアプローチをし、地域の人々との有意義な心の交流ももち帰っているようである。受験だけに縛られない有意義を試みとして、もっと注目されてよいのではなかろうか。(田村)

鳴門市ドイツ館行事案内

編集後記

 「ドイツ館館報 ルーエ」の、第3号をお届けします。今回は「バラッケ発見」を中心に据え、最初の「発見」に立ち会われた林啓介さんにご寄稿願いました。武知忠義さんには、4月に開館された姉妹館「賀川豊彦記念館」の紹介をお願いしました。また、3年間展示場の説明などで活躍なさった大熊さんが退職しますので、印象に残ったことを綴っていただきました。7月には、「ドイツ語版 第2号」を刊行の予定です。


ルーエのもくじページへ