鳴門市ドイツ館館報
Ruhe(ルーエ やすらぎ)
発行者
鳴門市ドイツ館
〒779−0225
鳴門市大麻町桧字東山田55−2
TEL(088)689-0099
FAX(088)689-0909
第2号
献花するケストナー大使(写真)
献花するケストナー大使
ケストナー駐日ドイツ大使夫妻来館

 快晴の7月14日に、阿波銀行の住友会長と山下頭取の案内で、駐日ドイツ大使のウーヴェ・ケストナー夫妻が板東に来られた。まず亀井鳴門市長を交え、合同慰霊碑とドイツ兵の墓に献花し、その後ドイツ館の展示などを時間をかけて見学された。
 なおお帰りの際に、マスコミから問い合わせがあったら伝えてほしいと、「ドイツ兵の墓での感想」をお聞きしメモした。先方からの連絡はなかったが、心のこもった「感想」で、そのままにしておくのも残念なので紹介させていただく。
 「ここではドイツ兵の墓がたいへん大事に扱われているが、以前勤務していたロシアでは、たくさんの墓が放置されたままになっていたことを思い出し、胸が痛んだ。この地の価値を、あらためて痛感した」 (田村)

ドイツ館の印刷物は大変な宝の山だ

−所蔵印刷資料の歴史的文化的重要性−徳島謄写印刷研究会事務局長・小西昌幸

 私がここ数年注目し、声を大にして「凄い凄い」と騒ぎ立てているのが、鳴門市ドイツ館所蔵の膨大な「謄写印刷物」である。80年以上前に異国の俘虜収容所という場所で気が遠くなるほどの多種多様・膨大な印刷物を残したこと、多色刷り謄写印刷の技法が実にレベルが高く美しいこと、インクの発色がいまだ美事に残っていることなど、その営為は素晴らしいとしかいいようがなく、それらは貴重な「文化遺産」だと私は認識している。
 2000年夏、私たち徳島謄写印刷研究会は鳴門市から館所蔵の多色刷り謄写印刷物の再現印刷の依頼を受け、代表の坂本秀童氏がそれに取り組んだ。これまで謎だった多色刷りの技法が、田村一郎さんの『ディ・バラッケ』の翻訳で解明されたことがきっかけだった。
 同年12月17日にはそれを記念したイベントがドイツ館で開かれ注目を集めた。一連の経緯は、節目節目で大きく新聞などに報道されたからご存じの方も多いと思う。このたび機会を得たので、今後の研究やアプローチについて愚考してみることにした。
再現プログラム「白馬亭にて」イラスト
再現プログラム「白馬亭にて」

 印刷技術者の子孫の調査
 印刷にたずさわった人たちの、子孫を捜すことはできないだろうか。彼らは、収容所内で極めて美しいカラーの印刷物を作り続け、さらには帰国する船の中でも新聞を作った、鬼のような誇り高き職人さんたちである。彼らは、その印刷物があまりに精巧であるため、本国で石版印刷ではないかと噂されたことにプライドが傷ついて、それで『ディ・バラッケ』1919年4月号に、謄写印刷技法についての詳細な記事を載せたのだ。そんな人たちだから、もし長生きされたのであれば、きっと近所や身内の人たちに「俺は、こんな凄い印刷物をバンドー収容所で作りつづけたんだ」と話していたに違いないと、私はにらんでいる。現存する印刷所の写真には関係者も写っているので、もしドイツのマスコミなどを通じて呼びかけができたなら、「これはうちのひいお祖父さんだ。そういえば、よく謄写印刷物の自慢話をしていた」というような遺族が名乗り出てくる可能性もあるのではないかと、私は勝手に想像しているのだ。そしてもしもその上に、万が一、印刷器材が発見されるようなことがあれば、これは十分「NHK特集」などのネタになるだろう。

 全国津々浦々への情報発信
 印刷物は、充分魅力のある観光資源である。少しずつでよいから心ある人たちが各自可能な方法で、継続して発信してゆくことが大切だと思う。
 私は、印刷史研究会の人たちと交流があり、これまでに資料や情報を送ってきた。活字書体や組版史の研究者やデザイナーで構成される印刷史研究会は、同分野では日本有数の権威的団体である。彼らがドイツ館の印刷物に高い関心を示し、2002年に発行される同会発行の学術研究誌『印刷史研究』10号でドイツの謄写印刷物を全面特集することが決まった。 田村一郎ドイツ館長による『ディ・バラッケ』謄写印刷(特集号)の翻訳全文と板東収容所の沿革、我が国の謄写印刷研究の第一人者・志村章子さんによる論文(60枚)、坂本代表による再現印刷の報告などで構成されることになっている。これが出たら、ドイツ館の印刷物の重要性は研究者間に広がるはずだ。 私の生業は、北島町創世ホールの職員であるが、ホールに講演会の講師としてお招きした県外の著名人などは極力ドイツ館にお連れしている。2001年10月には、世界的デザイナーの杉浦康平先生をお連れした。この時は、同じく著名なデザイナーで印刷史研究会同人の日下潤一さんも同席された。おふたりとも印刷物をみながら、「これは凄い」を連発された。

 ガリ版交流
 ガリ版印刷物を正面に据えて展示している公共博物施設は、ドイツ館のほかに鳥取県西伯町「祐生出会いの館」がある。同館は、優れた孔版画家で森羅万象の社会風俗コレクターだった板祐生(いた・ゆうせい)の、膨大な作品や収集資料を所蔵展示している施設である。そのほか、全国各地にいくつか謄写印刷資料館があり、愛好家も根強く存在している。この人たちの間に近年、ドイツ館のことはかなり浸透してきている。私たち徳島謄写印刷研究会は、ガリ版交流の可能性も探ってみたいと思う。

ガリ版印刷を楽しむ親子(写真)
ガリ版印刷を楽しむ親子

 そ の 他
 将来的には、図録資料集の発行、所蔵印刷資料の石版と謄写版への特定分類、製版担当者別の分類研究などなど、やるべきことはいくらでもある。
 印刷史的見地からもドイツ館は、魅力溢れる宝の山を抱えた大変な施設なのである。私たちは今後とも、せいいっぱい支援してゆきたいと考えている。


シーボルト博物館「極東での俘虜」展のポスター
シーボルト博物館「極東での俘虜」展
ドイツ調査旅行

ドイツ館館長・田村一郎

 ニューヨークの事件の翌々日、関空からドイツに発った。昨年から鳴門教育大学と鳴門市の間で、「板東収容所」の共同研究が始まり、その一環としての現地調査である。ドイツ経験の豊富な教育大の若手とのペアで、すべてをまかせての気楽な旅だった。
 多少の危惧はあったが、さしたることもなく飛行機はフランクフルトに着いた。すぐに列車に乗り、ロマンチック街道の入り口のヴュルツブルクに向かった。そこの「シーボルト博物館」で、第一次大戦時の「極東での俘虜」という展覧会が開かれていたからである。
 遺品を寄贈したケーバーラインは、23才の時はるばるロシアのウラジオストクの会社に赴任したが、3カ月後に戦争が始まり、日本経由で青島の志願兵となる。その後俘虜として松山と板東で過ごし、ヴュルツブルクに帰り着いたのは6年後のことだそうである。かなり商才にもたけていたらしく、タイプライターを使ってお金を貯め、カメラを買って写真屋を開いた。ドイツ館にあるのはほとんどがライポルトという人の写真だが、ほかにもカメラマンがいたのである。当然これまで見たことのない写真がたくさんあり、珍しく日記なども残っていて、かなり充実した催しだった。
 お世話願ったクライン・ランガーさんご夫妻は、十数回も日本に来ている親日家で、館には宿泊設備も付いていて、「長崎」と「大津」という名が付けられていた。日本語は話さないが、町の案内やコピーの手配など細かく気を遣って下さった。
 次にハンブルク経由で、軍港で知られているキールに行った。自主的に『バラッケ』のドイツ語版などの紹介などをしてくれている人から、そこに住んでいる元俘虜の娘さんが、かなりの資料をもっていると知らされたからである。写真のほかにも家具や壁掛けなどが部屋を飾り、日本か中国にいるような気分だった。
 仲間はそこからデンマークの国境に近いフレンスブルクに回ったが、そこではドイツ館には一号しかない、徳島収容所の新聞『徳島新報』が一年半分も残っていた。これが、今回の最大の収穫だった。
 ハンブルクで仲間とおち合い、ベルリンに向かった。ニューヨークのテロの中心人物の一人アタが、ハンブルク工科大学にいたというニュースが、テレビからくり返し流されていた。
 仲間の話では爆薬を仕掛けられたとの噂もあり、列車が出るかどうか判らないとのことである。半信半疑で駅に行ったが時間どおりに発車し、遅れもなくベルリンに着いてほっとした。宿は由緒があるらしく、北野青丘とかいう人の額がロビーにかかっていた。
 次の日は雨だったが改修中の「歴史博物館」を訪ね、『バラッケ』を寄贈し、写真資料を見せてもらった。青島のものが主で、かなり残酷なものもあり少々へきえきした。
 翌日は、最後の目的地であるライプツィヒである。駅では、ティーフェンゼーさんが出迎えてくれた。収容所関係の子孫探しには、ドイツ在住の日本人の方々にもご苦労願ったが、この人はブラウンシュヴァイクの女性の「ホームページ」に応えてくれた人である。
 出発前に市長からドイツからの情報が伝えられ、この人の父が中国に詳しい俘虜とのことで調べてみた。幸いなことに、「中国の夕べ」という講座のレジュメの中にその名があり、ひょっとしてと当たってみた『礼節指南』という本の著者も、ティーフェンゼーだった。お土産にコピーをもって行き、喜ばれた。
徳島新報(写真)
「徳島新報」
 ご当人は演劇の音楽監督をしていた芸術家で、息子は現在のライプツィヒ市長だった。その人が電話しておいてくれたせいもあるのだろう、「国立図書館」ではとても親切にしてくれた。
 ライプツィヒはドイツ統一の際にも率先して運動を展開した町で、民衆のエネルギーを示す記念館はなかなかの迫力だった。ゲーテの『ファウスト』に出てくる「アウエルバッハの酒場」や、バッハゆかりの教会など見所も多い。ことに最後の夜、運良く「ゲバントハウス」でブルックナーの「九番」を聴けた。指揮者の間近かの席で4千円、隣の方が感動する私に嬉しそうに何度も微笑みかけてくれた。やや緊張はしたが、個人的にもそれなりに成果のあったよい旅行だった。

ドイツ館の楽しいイベントから
第8回 ドイチェス・フェストinなると

 鳴門市では平成6年10月に現在のドイツ館の開館とドイツのリューネブルク市との姉妹都市締結20周年記念行事として「ドイチェス・フェストinなると」を開催しました。その後も地域の人々の強い要望により、長期的に民活を導入して継続し、鳴門市と大麻町商工会や地元の方々の協力を得て、昨年で早8回目を迎えました。
桧の獅子舞(写真)
桧の獅子舞
 主なイベント内容としては、ドイツから招いた音楽団の演奏や、著名人による講演会などのほかに、県内に住む外国人や国際交流協会会員達と、ダンスや音楽を楽しむことができる交流会など、来場者が主役となって楽しめる、たくさんの直接参加型のイベントを企画してきました。
 また出店のテナントでは、ドイツ・鳴門の物産展示即売会や地元の伝統工芸である大谷焼の絵付け教室など、地域活性化に根ざしたテナントを配置しています。さらに徳島の食材を使った「ドイツ風鍋」を無料で振る舞う等、身近にドイツ文化を楽しめるよう配慮しています。
 こうした努力が認められ、平成12年には国際文化交流の促進や地域活性化に貢献したとして、(財)地域活性化センター主催の「ふるさとイベント大賞(文化・交流部門賞)」を受賞しました。
 昨年はこの賞を励みにさらに充実した内容のプログラムにしようと、リューネブルク市音楽団やドイツのピアニスト・シュマールフース氏の演奏、漫画家富永一朗氏の記念講演会などに加え、徳島の伝統芸能を取り入れ、「駒三座」の皆さんの阿波人形浄瑠璃や、大麻町の「桧獅子舞保存会」の皆さんに獅子舞なども披露していただきました。また、大麻町商工会青年部が初めての試みとしてクイズ「ドイツの秘宝を探せ!」を企画、大麻町の歴史・旧跡にまつわる難問に多くの方がチャレンジし、大きな反響を呼びました。
 私たちドイツ館も、こうした催しを単なる「お祭」に止めず、地域の活性化と諸外国との国際交流のさらなる発展の基盤として生かしてゆきたいと考えています。
 今回お越し頂いた方々からのアンケートにも、このような催しが徳島など近くの人にもあまり知られていないのはもったいないとの声がありました。
 今年からはもっとPRにも努め、この「ドイチェス・フェストinなると」を県内の代表的な文化交流イベントとして定着させてゆきたいと思います。今後とも皆様のご支援、ご協力を宜しくお願いいたします。(小倉・高山)

他の収容所の関連情報
「エンゲル祭を開催して」
実行委員会・宇野義美

丸亀市エンゲル祭(写真)
丸亀市エンゲル祭
 平成13年9月9日の朝は、前日までの天気とは打って変わり、青空がわたしたちに微笑み掛けてくれました。
 「エンゲル祭」を開催しようと、地域の仲間たちが集まってから、、かれこれ一年が経過しようとしていました。丸亀に俘虜収容所があったという事実さえ忘れ去られようとしている今日、なんとかしてふるさとの歴史を伝えたいという純粋な思いが、地域主体のこのイベントの成功に導いたのです。
 丸亀市土器町東6丁目には、旧陸軍歩兵第12連隊所属の英霊を祀るために設けられた陸軍墓地があります。実は、この墓地には2人の外国人が葬られています。1人はロシア人、そしてもう一人はドイツ人のアマンドス・テメという人物です。この二人の墓は当時の陸軍が日本人と分け隔てなく設置し、それ以後も軍に関係する人たちなどにより、大切に守られてきました。
 テメ氏は、第一次世界大戦時に中国で俘虜となり、本願寺塩屋別院の丸亀俘虜収容所に収容されていたドイツ軍人で大正4年に亡くなりました。
 陸軍墓地に祀られた1人のドイツ兵の墓から「エンゲル祭」は始まりました。テメ氏が暮らした丸亀収容所に関する資料は、もうすでに丸亀には残っていませんでした。そこで、わたしたちは「鳴門市ドイツ館」を訪ねたのでした。そこで見つけた多くの資料が、およそ1世紀も前のさまざまな出来事をわたしたちに明らかにしてくれました。
 器械体操、精巧に作られた模型飛行機、音楽会の様子などは、まさに想像を越えるものでした。ドイツ人俘虜たちの生き生きとした暮らしぶりには驚かされましたし、当時のドイツの文化水準の高さにも驚きました。
 丸亀収容所に収容されていた俘虜の中に、パウル・エンゲルという音楽家がいました。エンゲル氏は当時のドイツでも指折りの音楽家で、特にベートーヴェンの演奏を得意としていたといわれます。丸亀収容所では、寺院楽団(後に保養楽団)を結成して、20回以上の演奏会を開いているのです。
 わたしたちは、このエンゲル氏の音楽性に着目して、陸軍墓地の墓碑供養と合わせた音楽イベントを企画することにしました。それが「エンゲル祭」です。「エンゲル祭」では、ドイツ館からお借りした写真の展示や、田村先生の講演、そしてコンサートと催しが実施されました。そして、会場を取り囲むように出店した模擬店は、地域の人たちで大にぎわい。予想以上の盛り上がりにわたしたち主催者も胸をなで下ろしたのです。
 わたしは、今回のイベントが成功したのは”地域のアイデンティティは、地域の人を引きつける”という、とても自然な理屈によるものではないかと思っています。『その地でなければならないもの』を大切にする気持ちが、人を動かすということなのかもしれません。
 地域の歴史的事実を大切にしたこの取り組みが、今後さらに充実するよう努めてまいりたいと思います。

館員紹介
(国際交流員)シュルツ・ローランド

シュルツ・ローランド氏(写真) 私は、ドイツのサールラント州のフランスに近いサールルイ市で昭和46年に生まれ、この市の隣、エンスドフ村で育ちました。そしてサールルイ市の中学校や高等学校に行きました。高等学校卒業後、家族と離れてラインランドファルツ州トリア市にあるトリア大学に入学し、高等学校時代からアジアの国に興味があったので「日本研究」を専攻しました。
 「日本研究」とは、日本語、日本文学、社会、歴史などです。中国や韓国についても興味がありましたが、日本の文化に一番興味がありました。また、京都の立命館大学に一年間留学し勉強しました。ドイツ以外の国で生活することは、私にとっては初めての経験でした。
 そして昨年の8月から私は、国際交流員として鳴門市ドイツ館で仕事をしています。国際交流員とは、どんな仕事をするのかという質問があると思います。姉妹都市のリューネブルク市を含むドイツからの通信書等の翻訳をしたり、ドイツ館に来るドイツのお客さんに、ドイツ語で面白い板東収容所の展示を案内することもあります。
 また、他の仕事もします。例えば、9月にリューネブルク市の隣町に住んでいるフォルマーヘルムトさんというドイツのパンの先生が2週間、鳴門市にあるドイツ軒の岡さんのところに滞在しました。今から約80年以上前、岡さんの祖先は板東収容所のドイツ兵俘虜に、ドイツパンを作ることを教えてもらいました。その時から岡さん一家は、自分たちでドイツのパンを作っています。ドイツのパンの先生は、岡さんに当時の作り方を教えました。その時、私はドイツ軒で通訳をしました。私は昔の交流のように、今また交流が出来たことを喜びました。そして、ドイツのパンの作り方を見たのは私にとってもはじめてであり、面白かったです。
 昨年の10月に、ドイツ館で「第8回ドイチェス・フェストinなると」というイベントがありました。リューネブルク市からタラルチ・ドルチという3人の音楽団がイベントに参加し、クラシック音楽の演奏をしました。私は、鳴門市役所の文化振興課長と一緒に3人の世話をしました。リューネブルク市の交響楽団員としての3人の音楽団は、日本に来たのははじめてですが、「鳴門市民のすばらしい歓待や親切が大変嬉しかったから、また鳴門市に来たい。」と言っていました。
 昨年の12月に、私は鳴門市の2002年ワールドカップサッカーキャンプ地誘致事業で、時々翻訳や通訳をしました。ドイツサッカー協会が鳴門市に来た時に、私はドイツサッカーチームのフェラー・ルディ監督と知り合うことが出来たのは楽しかったです。関係者はみんな頑張ったのに、鳴門市にキャンプ地誘致を出来なかったことは残念です。
 ドイツサッカー協会の人たちは、しかし「鳴門市の心からの歓迎に感動した。」と私に言いました。
 その上、他にも面白い仕事もあります。私は小学校を訪問して、ドイツを紹介することがあります。小学生は元気でドイツに大変興味があって、たくさんの質問をします。また、ドイツについていろいろな質問をする大学生などがドイツ館に来ます。
 さらに、私はドイツ館友の会が開くクリスマスの集いのために、ドイツのクリスマスの様子についてスピーチをしました。
 また、今年4月のリューネブルク市からの親善使節団の鳴門市訪問や、6月の「第九演奏会」のイベントを楽しみにしています。
 鳴門市ドイツ館に来た時は、是非私に話しかけて下さい。

ドイツ館への来客・手紙などから

 4月初めに、面白い問い合わせがあった。千葉にお住まいの国分さんからで、この方は父の代から電力会社に勤めてこられた。生まれも福島の猪苗代第三発電所で、長年猪苗代の発電所にかかわってこられただけに、関係者や家族を尋ねるなどして発電所に関連したことを調べておられるそうである。
 その過程で、大正3年にできた第一発電所の技術指導をした、3人の外国人技術者の名が浮かんできた。所内ではハウさん、マッコンノルさん、バウエルさんと呼ばれていたそうだが、このうちの一人がドイツ人で、板東にいたらしいというのである。しかもこの人は解放後にその地を訪れ、発電所がきちんと動いているかどうかを確かめてから帰国したという。その人が3人のうち誰かを、調べてほしいというのが手紙の内容である。
 そこでふと気づいたのが、日本で仕事をしていて参戦したとなるとこの人は「予備兵」か「志願兵」である。それらの人々は所属部隊が限られ、ほとんどは「第3海兵大隊の第6か第7中隊」に編入されている。それに当たるのはアドルフ・ハウプトという伍長だけで、おそらくこの人が縮めて「ハウさん」と呼ばれていたのではなかろうか。この人は戦前に青島の「広報印刷所」にいたことにもなっているのが気になるが、そこで電気関係の仕事でもしていたのだろうか。その由をお伝えしたが、お役に立つとよかったが。      (田村)


編集後記

 本号では、一昨年暮れの「謄写印刷再現イベント」にご協力下さった、北島町創世ホールの小西さんにご執筆いただいた。外部の方がこれだけ評価し支援して下さっているのだから、われわれ担当者は大いに心しなければなるまい。また9月に初めての「エンゲル祭」を成功させた、丸亀の宇野さんにもご寄稿をお願いした。お二人に、深く感謝したい。
 今回は「日本語版」と並行して、「ドイツ語版」も発行した。本紙で自己紹介をお願いしたシュルツさんにはたいへんなご苦労をおかけしたが、よい反響があることを期待したい。         (田村)


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