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鳴門市ドイツ館館報
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快晴の7月14日に、阿波銀行の住友会長と山下頭取の案内で、駐日ドイツ大使のウーヴェ・ケストナー夫妻が板東に来られた。まず亀井鳴門市長を交え、合同慰霊碑とドイツ兵の墓に献花し、その後ドイツ館の展示などを時間をかけて見学された。 なおお帰りの際に、マスコミから問い合わせがあったら伝えてほしいと、「ドイツ兵の墓での感想」をお聞きしメモした。先方からの連絡はなかったが、心のこもった「感想」で、そのままにしておくのも残念なので紹介させていただく。 「ここではドイツ兵の墓がたいへん大事に扱われているが、以前勤務していたロシアでは、たくさんの墓が放置されたままになっていたことを思い出し、胸が痛んだ。この地の価値を、あらためて痛感した」 (田村) |
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| ドイツ館の印刷物は大変な宝の山だ −所蔵印刷資料の歴史的文化的重要性−徳島謄写印刷研究会事務局長・小西昌幸 私がここ数年注目し、声を大にして「凄い凄い」と騒ぎ立てているのが、鳴門市ドイツ館所蔵の膨大な「謄写印刷物」である。80年以上前に異国の俘虜収容所という場所で気が遠くなるほどの多種多様・膨大な印刷物を残したこと、多色刷り謄写印刷の技法が実にレベルが高く美しいこと、インクの発色がいまだ美事に残っていることなど、その営為は素晴らしいとしかいいようがなく、それらは貴重な「文化遺産」だと私は認識している。 2000年夏、私たち徳島謄写印刷研究会は鳴門市から館所蔵の多色刷り謄写印刷物の再現印刷の依頼を受け、代表の坂本秀童氏がそれに取り組んだ。これまで謎だった多色刷りの技法が、田村一郎さんの『ディ・バラッケ』の翻訳で解明されたことがきっかけだった。 同年12月17日にはそれを記念したイベントがドイツ館で開かれ注目を集めた。一連の経緯は、節目節目で大きく新聞などに報道されたからご存じの方も多いと思う。このたび機会を得たので、今後の研究やアプローチについて愚考してみることにした。
印刷技術者の子孫の調査 全国津々浦々への情報発信 ガリ版交流
そ の 他 |
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ドイツ館館長・田村一郎 ニューヨークの事件の翌々日、関空からドイツに発った。昨年から鳴門教育大学と鳴門市の間で、「板東収容所」の共同研究が始まり、その一環としての現地調査である。ドイツ経験の豊富な教育大の若手とのペアで、すべてをまかせての気楽な旅だった。 多少の危惧はあったが、さしたることもなく飛行機はフランクフルトに着いた。すぐに列車に乗り、ロマンチック街道の入り口のヴュルツブルクに向かった。そこの「シーボルト博物館」で、第一次大戦時の「極東での俘虜」という展覧会が開かれていたからである。 遺品を寄贈したケーバーラインは、23才の時はるばるロシアのウラジオストクの会社に赴任したが、3カ月後に戦争が始まり、日本経由で青島の志願兵となる。その後俘虜として松山と板東で過ごし、ヴュルツブルクに帰り着いたのは6年後のことだそうである。かなり商才にもたけていたらしく、タイプライターを使ってお金を貯め、カメラを買って写真屋を開いた。ドイツ館にあるのはほとんどがライポルトという人の写真だが、ほかにもカメラマンがいたのである。当然これまで見たことのない写真がたくさんあり、珍しく日記なども残っていて、かなり充実した催しだった。 お世話願ったクライン・ランガーさんご夫妻は、十数回も日本に来ている親日家で、館には宿泊設備も付いていて、「長崎」と「大津」という名が付けられていた。日本語は話さないが、町の案内やコピーの手配など細かく気を遣って下さった。 次にハンブルク経由で、軍港で知られているキールに行った。自主的に『バラッケ』のドイツ語版などの紹介などをしてくれている人から、そこに住んでいる元俘虜の娘さんが、かなりの資料をもっていると知らされたからである。写真のほかにも家具や壁掛けなどが部屋を飾り、日本か中国にいるような気分だった。 仲間はそこからデンマークの国境に近いフレンスブルクに回ったが、そこではドイツ館には一号しかない、徳島収容所の新聞『徳島新報』が一年半分も残っていた。これが、今回の最大の収穫だった。 ハンブルクで仲間とおち合い、ベルリンに向かった。ニューヨークのテロの中心人物の一人アタが、ハンブルク工科大学にいたというニュースが、テレビからくり返し流されていた。 仲間の話では爆薬を仕掛けられたとの噂もあり、列車が出るかどうか判らないとのことである。半信半疑で駅に行ったが時間どおりに発車し、遅れもなくベルリンに着いてほっとした。宿は由緒があるらしく、北野青丘とかいう人の額がロビーにかかっていた。 次の日は雨だったが改修中の「歴史博物館」を訪ね、『バラッケ』を寄贈し、写真資料を見せてもらった。青島のものが主で、かなり残酷なものもあり少々へきえきした。 翌日は、最後の目的地であるライプツィヒである。駅では、ティーフェンゼーさんが出迎えてくれた。収容所関係の子孫探しには、ドイツ在住の日本人の方々にもご苦労願ったが、この人はブラウンシュヴァイクの女性の「ホームページ」に応えてくれた人である。 出発前に市長からドイツからの情報が伝えられ、この人の父が中国に詳しい俘虜とのことで調べてみた。幸いなことに、「中国の夕べ」という講座のレジュメの中にその名があり、ひょっとしてと当たってみた『礼節指南』という本の著者も、ティーフェンゼーだった。お土産にコピーをもって行き、喜ばれた。
ライプツィヒはドイツ統一の際にも率先して運動を展開した町で、民衆のエネルギーを示す記念館はなかなかの迫力だった。ゲーテの『ファウスト』に出てくる「アウエルバッハの酒場」や、バッハゆかりの教会など見所も多い。ことに最後の夜、運良く「ゲバントハウス」でブルックナーの「九番」を聴けた。指揮者の間近かの席で4千円、隣の方が感動する私に嬉しそうに何度も微笑みかけてくれた。やや緊張はしたが、個人的にもそれなりに成果のあったよい旅行だった。 |
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| ドイツ館の楽しいイベントから 第8回 ドイチェス・フェストinなると 鳴門市では平成6年10月に現在のドイツ館の開館とドイツのリューネブルク市との姉妹都市締結20周年記念行事として「ドイチェス・フェストinなると」を開催しました。その後も地域の人々の強い要望により、長期的に民活を導入して継続し、鳴門市と大麻町商工会や地元の方々の協力を得て、昨年で早8回目を迎えました。
また出店のテナントでは、ドイツ・鳴門の物産展示即売会や地元の伝統工芸である大谷焼の絵付け教室など、地域活性化に根ざしたテナントを配置しています。さらに徳島の食材を使った「ドイツ風鍋」を無料で振る舞う等、身近にドイツ文化を楽しめるよう配慮しています。 こうした努力が認められ、平成12年には国際文化交流の促進や地域活性化に貢献したとして、(財)地域活性化センター主催の「ふるさとイベント大賞(文化・交流部門賞)」を受賞しました。 昨年はこの賞を励みにさらに充実した内容のプログラムにしようと、リューネブルク市音楽団やドイツのピアニスト・シュマールフース氏の演奏、漫画家富永一朗氏の記念講演会などに加え、徳島の伝統芸能を取り入れ、「駒三座」の皆さんの阿波人形浄瑠璃や、大麻町の「桧獅子舞保存会」の皆さんに獅子舞なども披露していただきました。また、大麻町商工会青年部が初めての試みとしてクイズ「ドイツの秘宝を探せ!」を企画、大麻町の歴史・旧跡にまつわる難問に多くの方がチャレンジし、大きな反響を呼びました。 私たちドイツ館も、こうした催しを単なる「お祭」に止めず、地域の活性化と諸外国との国際交流のさらなる発展の基盤として生かしてゆきたいと考えています。 今回お越し頂いた方々からのアンケートにも、このような催しが徳島など近くの人にもあまり知られていないのはもったいないとの声がありました。 今年からはもっとPRにも努め、この「ドイチェス・フェストinなると」を県内の代表的な文化交流イベントとして定着させてゆきたいと思います。今後とも皆様のご支援、ご協力を宜しくお願いいたします。(小倉・高山) |
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| 他の収容所の関連情報 「エンゲル祭を開催して」 実行委員会・宇野義美
「エンゲル祭」を開催しようと、地域の仲間たちが集まってから、、かれこれ一年が経過しようとしていました。丸亀に俘虜収容所があったという事実さえ忘れ去られようとしている今日、なんとかしてふるさとの歴史を伝えたいという純粋な思いが、地域主体のこのイベントの成功に導いたのです。 丸亀市土器町東6丁目には、旧陸軍歩兵第12連隊所属の英霊を祀るために設けられた陸軍墓地があります。実は、この墓地には2人の外国人が葬られています。1人はロシア人、そしてもう一人はドイツ人のアマンドス・テメという人物です。この二人の墓は当時の陸軍が日本人と分け隔てなく設置し、それ以後も軍に関係する人たちなどにより、大切に守られてきました。 テメ氏は、第一次世界大戦時に中国で俘虜となり、本願寺塩屋別院の丸亀俘虜収容所に収容されていたドイツ軍人で大正4年に亡くなりました。 陸軍墓地に祀られた1人のドイツ兵の墓から「エンゲル祭」は始まりました。テメ氏が暮らした丸亀収容所に関する資料は、もうすでに丸亀には残っていませんでした。そこで、わたしたちは「鳴門市ドイツ館」を訪ねたのでした。そこで見つけた多くの資料が、およそ1世紀も前のさまざまな出来事をわたしたちに明らかにしてくれました。 器械体操、精巧に作られた模型飛行機、音楽会の様子などは、まさに想像を越えるものでした。ドイツ人俘虜たちの生き生きとした暮らしぶりには驚かされましたし、当時のドイツの文化水準の高さにも驚きました。 丸亀収容所に収容されていた俘虜の中に、パウル・エンゲルという音楽家がいました。エンゲル氏は当時のドイツでも指折りの音楽家で、特にベートーヴェンの演奏を得意としていたといわれます。丸亀収容所では、寺院楽団(後に保養楽団)を結成して、20回以上の演奏会を開いているのです。 わたしたちは、このエンゲル氏の音楽性に着目して、陸軍墓地の墓碑供養と合わせた音楽イベントを企画することにしました。それが「エンゲル祭」です。「エンゲル祭」では、ドイツ館からお借りした写真の展示や、田村先生の講演、そしてコンサートと催しが実施されました。そして、会場を取り囲むように出店した模擬店は、地域の人たちで大にぎわい。予想以上の盛り上がりにわたしたち主催者も胸をなで下ろしたのです。 わたしは、今回のイベントが成功したのは”地域のアイデンティティは、地域の人を引きつける”という、とても自然な理屈によるものではないかと思っています。『その地でなければならないもの』を大切にする気持ちが、人を動かすということなのかもしれません。 地域の歴史的事実を大切にしたこの取り組みが、今後さらに充実するよう努めてまいりたいと思います。 |
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私は、ドイツのサールラント州のフランスに近いサールルイ市で昭和46年に生まれ、この市の隣、エンスドフ村で育ちました。そしてサールルイ市の中学校や高等学校に行きました。高等学校卒業後、家族と離れてラインランドファルツ州トリア市にあるトリア大学に入学し、高等学校時代からアジアの国に興味があったので「日本研究」を専攻しました。「日本研究」とは、日本語、日本文学、社会、歴史などです。中国や韓国についても興味がありましたが、日本の文化に一番興味がありました。また、京都の立命館大学に一年間留学し勉強しました。ドイツ以外の国で生活することは、私にとっては初めての経験でした。 そして昨年の8月から私は、国際交流員として鳴門市ドイツ館で仕事をしています。国際交流員とは、どんな仕事をするのかという質問があると思います。姉妹都市のリューネブルク市を含むドイツからの通信書等の翻訳をしたり、ドイツ館に来るドイツのお客さんに、ドイツ語で面白い板東収容所の展示を案内することもあります。 また、他の仕事もします。例えば、9月にリューネブルク市の隣町に住んでいるフォルマーヘルムトさんというドイツのパンの先生が2週間、鳴門市にあるドイツ軒の岡さんのところに滞在しました。今から約80年以上前、岡さんの祖先は板東収容所のドイツ兵俘虜に、ドイツパンを作ることを教えてもらいました。その時から岡さん一家は、自分たちでドイツのパンを作っています。ドイツのパンの先生は、岡さんに当時の作り方を教えました。その時、私はドイツ軒で通訳をしました。私は昔の交流のように、今また交流が出来たことを喜びました。そして、ドイツのパンの作り方を見たのは私にとってもはじめてであり、面白かったです。 昨年の10月に、ドイツ館で「第8回ドイチェス・フェストinなると」というイベントがありました。リューネブルク市からタラルチ・ドルチという3人の音楽団がイベントに参加し、クラシック音楽の演奏をしました。私は、鳴門市役所の文化振興課長と一緒に3人の世話をしました。リューネブルク市の交響楽団員としての3人の音楽団は、日本に来たのははじめてですが、「鳴門市民のすばらしい歓待や親切が大変嬉しかったから、また鳴門市に来たい。」と言っていました。 昨年の12月に、私は鳴門市の2002年ワールドカップサッカーキャンプ地誘致事業で、時々翻訳や通訳をしました。ドイツサッカー協会が鳴門市に来た時に、私はドイツサッカーチームのフェラー・ルディ監督と知り合うことが出来たのは楽しかったです。関係者はみんな頑張ったのに、鳴門市にキャンプ地誘致を出来なかったことは残念です。 ドイツサッカー協会の人たちは、しかし「鳴門市の心からの歓迎に感動した。」と私に言いました。 その上、他にも面白い仕事もあります。私は小学校を訪問して、ドイツを紹介することがあります。小学生は元気でドイツに大変興味があって、たくさんの質問をします。また、ドイツについていろいろな質問をする大学生などがドイツ館に来ます。 さらに、私はドイツ館友の会が開くクリスマスの集いのために、ドイツのクリスマスの様子についてスピーチをしました。 また、今年4月のリューネブルク市からの親善使節団の鳴門市訪問や、6月の「第九演奏会」のイベントを楽しみにしています。 鳴門市ドイツ館に来た時は、是非私に話しかけて下さい。 |
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ドイツ館への来客・手紙などから
4月初めに、面白い問い合わせがあった。千葉にお住まいの国分さんからで、この方は父の代から電力会社に勤めてこられた。生まれも福島の猪苗代第三発電所で、長年猪苗代の発電所にかかわってこられただけに、関係者や家族を尋ねるなどして発電所に関連したことを調べておられるそうである。 |
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本号では、一昨年暮れの「謄写印刷再現イベント」にご協力下さった、北島町創世ホールの小西さんにご執筆いただいた。外部の方がこれだけ評価し支援して下さっているのだから、われわれ担当者は大いに心しなければなるまい。また9月に初めての「エンゲル祭」を成功させた、丸亀の宇野さんにもご寄稿をお願いした。お二人に、深く感謝したい。 |
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